チた。貴様はもう死ぬ……交会の日は浅かったが年来の友と死別するような悲哀の情を感じた。この男も薄命であった。
 つぎの日の夜あけごろ。
 前の廊下を駆け歩くあわただしい足音をきいた。扉《と》をあけて走ってゆく妻をつかまえてきくと、彼が頑固な嘔吐をはじめたので医者を迎えに行くところだとこたえた。
 行ってみると彼はとめどもなく嘔吐しつづけていた。もはや吐くものがなくなり薄桃色の液を吐いていた。
 夜あけ近く六階へあがって行った。扉をひきあけると思いがけない光景が展開した。夫婦は睡眠不足で赤く眼を腫らして緊張したようすで動きまわっていた。妻君は湯タンポを入れ換え、襁褓《おむつ》をひきだし、亭主のほうは裸の胸へ彼の足をおしつけて体温で温めようと一心になっていた。ときどき彼の顔のほうへ耳をよせ、彼の呼吸がすこしでも安まり、彼の顔から苦痛の色がうすらぐと夫婦は涙ぐんだ眼でうれしそうにうなずきあうのだった。困惑した頭では、この成りゆきに解釈をあたえることができず茫然たる心をいだいて部屋へ帰った。
 一、二週日にわたる夫婦の看護で、彼は類似赤痢から奇蹟的に命をとりとめ、寝台のうえに坐っていた。自分を
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