強烈な眼があった。
 彼は無断侵入が真に憤懣《ふんまん》に耐えぬようすで「貴様なんだ」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。自分はほとんど眼も口もあけられぬ異様な悪臭に辟易《へきえき》し「臭くてこれじゃ話もなにもできぬ。いま窓を開けてから話す」と答えながら斜面の天井についている窓をおし開けた。
「天井の壁が落ちてきて物騒でしようがない。暴れるのもいい加減にしておけ」彼は急にうちとけた口調になって「実はナ、今日うれしいことがあってだれかと喋りたくてしようがなかったところなんだ。おれが騒いだために貴様がやってきたというのは、こりゃなかなか運命的な話だぞ……争われないもんだ。貴様があんな口調でものをいったのがおれの感情にピッタリした。忙しくなかったらしばらくそこへ掛けて行ってくれ。実はナおれの研究はまさに完成するところなんだ。間もなくおれは無限の財産を手に入れることになるんだ。無限だ。無限、無限! 突飛《とっぴ》にきこえるだろうが、おれは狂人じゃないよ。おれはねこの十年の間ルウレットの研究をしていた。屑箱の中の屑のようなものを喰って、寝る目も寝ずに計算ばかりしてたんだ。いったい丁半《ちょうはん》に法則がないというのが定説だ。早い話がポアンカレとかブルヌイユなんていうソルボンヌの大数学者が精密な計算を例にひいて証明している。たとえば奇偶《ハザアル》の遊びで、いま出た目とそのあとの目というものはそのたびに永久に新規《ヌウヴォ》だという。これがかれらの学説なんだ。よろしい……ところがわれわれは千回|骸子《さいころ》を振るといつも半々位の割合で奇偶が出ることをしっている。もし目がいつも新しいものなら、もし奇偶に法則がないものなら、なぜ奇数ばかり、あるいは偶数許り千回つづけて出るような出鱈目なことがないのだろう。それは不可能じゃない、と数学者はいうだろう。それア不可能じゃない」といいながら壁に書きつけた公式を指さした。「君はどういう研究を専門にやっているひとなのだね? あの公式の意味がわかるひとなのかね?」
 壁の上にはこんな公式があった。
[#天から6字下げ][#公式(fig46070_01.png)入る]
 めんどうくさくなったので、判らぬとこたえた。
「この公式はナ、たとえばルウレットの赤《ルージュ》・黒《ノワール》の遊びで、赤だけがつづけて百回出るようなことは
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