と説明すると「黒へ五百|法《フラン》!」と叫び、賭けたしるしにノートへ N−500 と書きつけた。
 赤が出た。
「赤が出たらどこまでも赤に乗って行く約束だったじゃありませんか。勝手にシステムを変えるからいけないんです」と細君がやりこめた。夫のほうは見るもみじめに狼狽して「システムといったって博奕のことなんだから百パーセントに正確なもんじゃない。これは負ける回数をうんと少くして出来るだけ勝つ回数を多くしてその差で自然に儲けるようになっているシステムなんだから、一回や二回負けたってたいしたことはないさ。もっともいまは勝手にシステムを変えたからいけなかった。きめたシステム通り赤へ乗ってゆく。こんどは大丈夫……赤へ五百|法《フラン》」
 黒が出た。自分は見かねて、六階にいる男もじつはルウレットの研究をしているのだが、十年もやってようやくものになりかけているそうだという話をした。それほど研究してもかならず勝てるとはきまっていぬというのに、こんなにあやふやな思いつきでルウレットにたちむかうなんて愚劣なことはよしたがよかろうとたしなめたつもりだったが、二人にはこれがまるで通じぬらしく、たちまちはげしい渇望の色をあらわしてぜひそいつを教えてもらうことにしようといいだした。自分は「十年もかかって研究したものをそうかんたんに教えてくれるはずはなかろう」と苦《にが》い調子でいうと、夫は「ええ、ですからただ教えてもらうんじゃない。ぼくのシステムをむこうへ公開するんだからつまり交換教授です。これなら先生もまさかいやとはいわないでしょう」
 そして夕食に招くという名目で、うまくつれだしてほしいとたのんだ。自分は事を好むほど若くはないつもりだが夫婦の厚顔《あつかま》しさがひどく癇にさわり、無理にも六階の住人を引っぱってきて、こっぴどくとっちめてやりたくなった。
 一、彼は長椅子に寝ころがって煙草をふかしていた。部屋の紙屑は残らず消え、意外に清潔なようすになっていた。机の上にも埃がたまっていてしばらくそこに倚らなかったことを示していた。
 彼は元気よくはね起きて「おれが逢いたいと思ってるとかならず貴様がのこのこやってくる。おれと貴様の間には感応し合う電気のようなものがあるのかも知れぬな」といった。「じつはお前を晩飯に誘おうと思ってやってきたのだ。もっとも二人きりじゃない四階の夫婦もまじるのだが」
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