がねえ、あっしの考えじゃ、どうも冗談たあ思われなかったんだ。ちゃんとすじが通っているからね」
二十日鼠が、ふふ、と苦笑した。菜葉服はむっとしたようすで立ちあがった。
「おい、妙な笑いかたをするじゃねえか」
二十日鼠が言いかえす。菜葉服がいきり立つ。男《ボーイ》までそれに加わって、おい追い手のつけられないようすになって行った。
娘は眼にみえないほど、すこしずつ青年のほうへ寄っていった。初対面の男たちが下素っぽく罵りあっている。この不潔な酒場のなかでは、青年の端正な美しさは、たしかにひとつの救いであった。
娘は青年の耳元でささやいた。
「……ここがわからんで、あたし、ずいぶん探し廻りましてんの。……しょむない……あたし、やっぱり慾ばり女なんですわ」
彼女のいいかたは、いかにもあどけなかったので、青年は微笑せずにいられなかった。
「でも、今のところまだ、担がれたんだときまったわけでもありませんし……」
腕組みをしながら、隅のほうで超然と三人の論争をきき流していた酒鼻が、急に口をきりだした。
「小生もこれを冗談だときめてかかる必要はないと思う。要するに、手紙の差出人がまだやってこないと言うだけのことなんだからねえ。……一年もたってからなら、やっぱり担がれたんだろうと思うがいいさ。しかるに、約束の時間よりまだ二時間しか経っていないんだ。どういう余儀ない事情で遅刻しているのか知れやしない。それに、小生ひそかに、これは冗談ではない。なにか重大なわけがあるとにらんでいるんだ。……そもそも、われわれ五人をこんな酒場によびだしてなんの利益がある。たいして面白い観物でもありやしないからねえ。……また、ことによれば、あの手紙の差出人は、実はここのおやじ、すなわち、絲満南風太郎君それ自身かも知れないということだ。……あるいは、そうでないかも知れん。……しかし、たぶん、……多分、彼はこれについてなにか知っている。すくなくとも、彼はわれわれを釈然とさせるに足る説明の材料を、持っている筈だと小生は思う」
菜葉服がうなるように言った。
「だから、俺あさっきからそう言ってるじゃねえか。ここのおやじにきけあ話がわかるってヨ。……それをこの先生が、(と、露骨に二十日鼠を指して)おっひゃらかすようなことを言うから、俺あ腹をたてるんだ。(こんどは酒鼻に)どうです、こんなことをしてるより、ひとつ、おやじを起してきいて見ようじゃありませんか(また、二十日鼠にむかって)おめえ、冗談だと思うなら、こんなところにまごまごしていることはなかろう。さっさと帰んなヨ」
「さよう。そろそろ失敬しよう。……なあに、どうせ話はわかってるんだ」
そのくせ、腰をあげるようすもなかった。
酒鼻は男《ボーイ》にむかって、
「オイ、若い衆、ハエ太郎君を起して、ここまでつれてきてくれ。……おやじがなにか知ってるなら、われわれに説明する義務があるんだ。……反対に、もしなにも知らないてえなら、せっかくのご休息をお妨げしたについて、われわれ一同は、謝罪のために、大いにここで飲むことにする。……すくなくとも、小生は大いに飲む。……もう正午もすぎてるんだ。とっとと行って起してこい……」
男《ボーイ》は頭をかきながら、
「大将を起すんですかい。……いやだなア。またがみつかれらア」
「だからヨ、みなであやまってやらあナ」
すると、酒鼻は大きな声で叫んだ。
「わかったぞ! ……やい、ボーイ。そういう風にぐずつくところを見ると、貴様も同類だな。あの手紙は、酒場の人|集《よ》せにやった仕事だろう……。どうだ、白状しろ」
「じょ、冗談いうねえ。うちの大将はそんなんじゃねえや。……おめえらのような貧乏人を集《よ》せたって、切手代のほうがたかくつかあ、馬鹿にするな。……うちの大将ぐれえ寝起きのわるいのはねえんだからよ。それさ、あっしがいやなのは。……だがまあ、それほどいうんなら起してきまさ」
男は板裏を鳴らしながら、酒場の奥の狭い階段を、バタリ、バタリと、のろくさくのぼっていった。やがて足音は五人の真上へくる。
男はそっと扉を叩いている。階下では五人が、音のする方へ耳をすます。男はこんどはやや強く叩きながら、どなっている。
「大将……大将……もう正午《ひる》すぎですぜ」
みな返事をまっている。……が、返事がない。
割れるように扉をたたく音が、酒場じゅうをゆすぶる。
「大将……大将、工合でも悪いんですか」
返事がない……
男がころがるように階段を駆けおりてきた。酒鼻がボーイを抱きとめる。
「返事をしない……(顔をしかめながら、うわずったような声で、)ああ、こいつあ妙だ。……こんなことははじめてなんで……どうしたってんだろう……あっしゃ、もう」
酒鼻がいった。
「よし! 一緒に行ってやろう。……とにかく見てみなくては……」
そこで、硬ばった顔をしながら、二人が階段をのぼってゆく。絲満の部屋の前へくると、酒鼻は鍵口からなかをのぞいた。
「……雨戸がしまってるんだ。……真っ暗でなにも見えやしない」
二人で力一杯に扉を叩く。……依然として返事がない。なにかひどく臭う。
「……オイ、いやな臭いがするじゃないか……(なにか考えていたが、急に顔色をかえると、おしつけるような声で)俺は知ってるぞ、この臭いを……。おい、若い衆! 早く交番へいって巡査をよんでこい! 早く!」
ボーイが駆けだす。酒鼻は男のあとからのっそりとおりて来た。すこし震える声で、
「巡査をよびにやった。……扉がしまっていて、……それに妙な臭いがするんだ」
「どんな臭いですか」
と、二十日鼠がたまげたような顔できいた。
「……行って、かいでごらんなさい。すぐわかるから……」
二十日鼠は動かなかった。
「いつもこんなによく寝こむのか」力一杯扉を叩いてから、巡査が男《ボーイ》にたずねた。「そうじゃない? ……じゃ、ひとつ開けて見よう。……鉄槓杆《かなてこ》があるかね? ……なかったらどこかへ行って借りて来い」
男が鉄槓杆を担いできた。巡査は槓杆をうけとると、扉の下へそれを差込んで、ぐいともちあげた。蝶番《ちょうつがい》がはずれた。錠の閂下《した》がまだ邪魔をしている。うん、と肩でひと押し。扉は内側へまくれこんだ。
むっとするような重い臭いが鼻をつく。手さぐりで壁の点滅器《スイッチ》をおす。……照明がはいって、そこで虐殺の舞台装置が、飛びつくように、一ペンに眼の前に展開された……。
敷布のくぼみの血だまり、籐椅子の上の金盥《かなだらい》には、赤い水が縁まで、なみなみとたたえられている。血飛沫《ちしぶき》が壁紙と天井になまなましい花模様をかいている。……そのすべてから、むせっかえるような屠殺場の匂いがたちのぼっている。寝台と壁の間の床の上に、裸の人間の足……乾いて小さくしなびた老人の蹠《あしのうら》がつきだされていた。
「おや! あそこにいた。……ひどいことをしやがったな」
巡査はハンカチで首のまわりを拭いた。
気抜けしたような男《ボーイ》のうしろには、五人の客が、明るい電灯の光の下で、ねっとりとかがやく血だまりを見ていた。藁蒲団をしみ通した血が、ポトリ、ポトリ、と床のうえにしたたるのがはっきりときこえる。
二十日鼠は背中を丸くして、歯の間から荒い呼吸をしていた。草笛のように甲高くヒュウヒュウ鳴る音は、血の滴る陰気な音と交りあって、ひとの気持ちをいらいらさせた。
娘は青年の方をふりかえると、溺れかかるような眼つきをした。青年は急いで娘の傍へよると、腕のなかへ抱えた。娘は蒼ざめた額をおさえながら、夢のさめきらないひとのような声で、どうぞ……階下へ……と、いった。
その声で巡査がふりかえる。五人を見ると、はじめて気がついたように、男《ボーイ》にきいた。
「この連中はなんだね」
「店のお客です。始めてのひとばかりなんで……」
「ふうん。……さ、みんな、おりた、おりた。帰らずに階下で待っていろ。……もうここへあがって来ることはならんぞ」
巡査はみなを階下へ追いおろすと、あたふたと街路へ出て行った。
自動車がとまり、警部の一行がはいって来て二階へあがって行った。一人の巡査は、こらこら、と言って店先の弥次馬を追いはじめる。
検証は四十分近くもかかった。警部は低い声で二人の部長とささやきながら降りて来た。酒場の卓の前へ坐ると、じろじろと五人の顔を見廻した。手帖を出しながら、
「そこで、……(二十日鼠を指して)ちょっと、……君から始めよう。なんだい君は。ここへなにしに来たんだね、今朝?」
「わたくしども五人は、ある不明な人物から、今日の十時までにここへくるように指定されまして、それでやってまいったのでございますが、……しかるに、当の告知人は、とうとう姿をあらわさなかったというわけで。……手紙とは、すなわちこれでございます」
二十日鼠はポケットから、さきほどの手紙をとりだすと、うやうやしく叩頭して警部に渡した。
「姓名は?」
「乾峯人《いぬいみねと》。……高等官七等。元逓信省官吏。只今は恩給で生活いたし、傍ら西洋古家具骨董商を営んでおるのでございまして、住居は、淀橋区角筈二丁目二十七番地。……五十二歳。はい、まったくの独身でございます」
「それから、そちらの婦人……」
「雨……雨田葵《あめだあおい》……只今、新宿の〈シネラリヤ〉で働いております。……四……四谷区大木戸二ノ一文園アパート。二十三歳。独身でございます」
「よろしい。……つぎ」
「西貝計三《にしがいけいぞう》(酒鼻が無造作にこたえる)東都新聞の演芸記者。四谷区新宿二丁目五十八。当年三十七歳」
警部は菜葉服のほうへ顎をしゃくった。
「古田子之作。深川区富岡町二一七。〈都タクシー〉で働いております」
「運転手か」
「へえ、運転もいたしますが、いまはおもに古自動車をなおす方をやってるんで。……住居は、そこの二階で寝泊りしております。(頭をかきながら)まだ嬶《かかあ》はございません。へえ、三十三でございます」
警部は手帖をしまいながら、もう自由にひきとってよろしい、といった。青年が警部の前へすすみでた。
「私はまだすんでおりません」
警部は、すこしてれながら、
「ああ、……君は?」
「私は四日前に台北から上京いたしまして只今は麹町〈南平ホテル〉に泊っております。もとは青島《チンタオ》の貿易商会につとめておりました。現在は無職……失業中なのです。……久我千秋《くがちあき》。明治三十五年生れ」
そういって、上品なおじぎをした。
五人はわいわいいう弥次馬をおしわけながら街路へでた。
久我が片手をあげる。久我と葵をのせて、自動車は走り去った。
2
御苑裏の暗い街路に、〈シネラリヤ〉が夜の花のようにほの明く咲いていた。
階下は喫茶店になっていて、白い紗のカアテンをすかして、椰子の葉と常連の顔を見ることが出来る。しかし、二階のダンシング=バアの方は、さように開放的ではない。肉色のカアテンが、|薄い下着《シュミイズ》のようにその肉体を蔽いかくしている。
ここに集まるひとびとは、いわゆる、大東京の通人《ラフイネ》たちである。この都会の最も装飾的な要素であり、東京の「遊楽街《リユ・ド・プレエジール》」の伝説口碑に通暁しているすぐれた土俗学者たちだ。多少は互いの身分を知り合い、いくらかずつは、互いに肉親的なものを感じている連中である。
バアの広間の中央は、「踊り場」になっていて通人《ラフイネ》たちは、そこで非合法的に踊る。この愛すべき秘密は、ある素朴《プリミチフ》な方法によって保たれていた。
「常連」以外の男がはいってくる。(これは風紀巡査かも知れないのだ)すると、信号の蝉鳴器《ブザ》が低くうなりだす。階下からの合図だ。二階のタンゴは、そこで、片足をあげたままで停まらなくてはならない。……この冒険が〈シネラリヤ〉の魅力になっているのであった。
その日の夜十時頃、久我千秋は〈シネラリヤ〉の扉をおす。入口の勘定台には柔和な顔をした老人がいて、久我を
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