前がない。手がふるえた。手紙にはこう書いてあった。
〈雨田葵君は、絲満が殺害された夜の一時頃、非常梯子をつたって、ひそかに戸外へ抜けだしているという事実があります。これはどういうことを意味するか知りませんが、こういうことを承知していられるのもお便利と思い、ちょっとご注意までに申上げました。一友人より〉
 葵は床の上へ坐りこむと両手で顔を蔽った。
 あの晩、非常梯子をつたって出て行ったのは葵ではなかった。葵の母とも姉ともいうべきむかしの家庭教師、志岐よしえである。六月一日の銀行ギャング事件の迸《そばづえ》を恐れて東京へ逃避し、三日のあいだ葵の部屋に潜伏していた。
 葵にはそういう思想運動には同情も興味もない。ただよしえへの愛情のためにしたことだったが、かりにこれを久我に告白したとしても、その通りに信じてもらえるであろうか。また、たとえ、久我からどのように考えられようとも、もうしばらく、これを告白するわけにはゆかない。よしえの信頼だけは裏切りたくないのだ。
 それにしてもこんな陰険な振舞をするのは誰だろう。……ふと、かんがえついた。西貝。そういえば、披露式の夜、葵にたいするそれとない無礼な
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