報だと思ってあきらめるさ。……しかし、妙な面《つら》になったねえ、歪んでるぜ」
 乾は大げさに額をおさえながら、
「……どうも頭の芯が痛んでならない。顔なんぞどうでもいいが、一時はだいぶ物騒でしたよ。匕首《あいくち》なんかひけらかしゃがってねえ。(と、いって、あとは独語のように)ふ、ふ、ああいう風に向っ腹をたてるところを見ると、やはりあいつが殺ったのじゃなかったかも知れん」
 西貝は、どたりと机の上へ両足をのせながら、
「……あの勢いなら絲満ぐらい殺《や》りかねないじゃないか。……しかし、案外あれで堅気なのかな。……いや、そんなことはあるまい。この二三年、絲満などと悪く仲間になってたそうだから、なんだかわかったもんじゃないさ。……それに五人のなかじゃ、なんといっても、あいつだけが絲満の地理に明るかったのだからな。……すると、今日は貴公の口をひっ撲《たた》きにきたのかな」
 乾はうるさく肯きながら、
「そうそう、あたしもそう思ってるんです。……だがねえ、脅かしてあたしの口を塞ごうたって、そううまくゆきやしない。……してみると、どうせあいつも、何か弱い尻をもっているのにちがいないのさ。……いまに見てろい。ひどい目に逆《さか》ねじを喰わしてくれるから……。それに、あいつは……」
 遮ぎりながら、西貝が、いった。
「それはそうと、新婚旅行の久我夫婦は、昨夜無事に発っていったかね」
「ふん、一等になんか乗りこんでね、溌剌たる威勢でしたよ。(急に声をひそめると)それについてね、あたしあ、ちょっと感じたことがあるんだ」
「どう感じた? ……羨ましくでもなったか」
 チラリと上眼をつかって、「……ねえ、西貝さん。まさか久我は逃げたんじゃないんだろうねえ。……もし、そうだとすると……」
「殺《や》ったのは久我だというのかね」
 乾が空嘯いて、いった。
「あんたは知ってるさ」
 西貝がはねかえす。
「そんなことおれが知るもんかい。……へへえ、古田と葵で足らずに、こんどは久我を密告《サス》つもりなんだな。……まるで縁日の詰将棋だ。あの手でいけなきゃこの手か。……おいおい、頼んどくが小生だけは助けてくれよ」
 乾はニヤリと笑うと、
「……いつぞやもいいましたが、遺産をひっ攫ったやつをこの手でとっちめるまでは、死んだってあたしゃあきらめないんだ。……用心なさいよ、おいおいそっちへもお鉢がまわるかも知れないからねえ。……ま、これは冗談だが。……(いつものねちねちした調子で)ねえ、西貝さん、あんたいったいどう思います。あたしあ、もう久我は帰ってこないと思うんだが……。たぶん、上海あたりへ逃げちまったのさ。……若造のくせにいやに舞台ずれ[#「舞台ずれ」に傍点]がしてやがるから、どうせ只もんじゃないと睨んでいたんだ。……それにね、あたしのことを古田にいいつけたのは久我の野郎なんですぜ。だから……、あたしにあこうも思われるんです。古田はただ張扇を叩いただけで、きょうの修羅場を書下したのは、じつは久我なんじゃないか、ってねえ。……古田を煽てて、あたしを殺……」
 西貝はうるさそうに舌打ちをすると、
「はやく殺されちまったらいいじゃないか。(と、つけつけと言って立ちあがると)さっき手紙で呼びよせたのは、こんな用だったのか。……なら、俺あもう帰るぜ」
 乾は慌てて、泳ぐような手つきをしながら、
「いや、そうじゃない。こないだ、あんたが言ったものを用達てようと思って、今日用意しておいたんです。……いま出しますから、まあ、もうすこし坐っててくださいよ」
「そうか、それはサンキュウ。……証文は書くが、しかし、利息をとるとは言うまいな」
「その心配はいりませんよ。なにしろ、あたしとあんたの仲だからね。(そういうと、身体をのりだすようにして)ねえ西貝氏。それで、久我の正体はいったい何です。……青島にながくいたというだけで、一向なにもわかっていないんだが……」
 西貝は、呆れかえったという風に、まじまじと乾の顔を眺めながら、
「……どうも根強いもんだねえ。じつに恐れいっちまうよ。……だから、言ってるじゃないか、なにも知らないって」
「いや、それは嘘だ。……あんたはなにか知ってるくせにあたしに隠してる。(急に憐れっぽい声をだして)ねえ、そう言わずに教えてくださいよ。あたしあ、……あかにし[#「あかにし」に傍点]だが、これで、いちめん純情なところもある男さ。……盗るわけがあって盗ったのなら、密告の返せのといいやしない。ただねえ、白ばっくれていられると我慢がならないんです。ご覧のとおり、無利子無担保で金を貸そうって位の心意気はもってるんだ。……また、きいたからって、決してあんたには迷惑をかけませんよ。……(薄笑いをして)ねえ、殺《や》ったのは久我でしょう?」
「そうならそうと勝手にきめ
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