かがめてバタバタと扉のほうへ逃げる。壁のところですぐ追いつめられてしまった。
 古田は乾の襟がみをつかみ、ずるずると寝台のところまで引きずってきて、あおのけにその上へ圧えつけると、左手で乾の喉をしめながら、右手を上衣の衣嚢に突っこんで匕首をひきぬいた。乾の鼻の先でドキドキとそれが光った。いまにもグサリと喉元へきそうだった。
「助けてくれ」
「ぬかせ!」
 首すじにヒヤリと冷たいものがさわった。
「それあ……無理だ……あたしはなにも……」
「殺《ヤ》るぞ!」
 力まかせに喉をしめる。
「く、……くるしい……」
「てめえが密告《サシ》たと教えてくれたやつがある。……言え!」
〈こんな気狂いとやりあったって仕様がない。まあ、する通りさせておけ。……まさか殺すまでのことはしやすまい。……それにしても、どいつが言やがったんだ〉
 わざと怒ったような調子で、
「だれだ、それあ。そんな、余計なことを……言いやがった奴は!」
「久我だ」
 乾は歯がみをした。
〈ちくしょう〉それから、まるで唄でもうたっているような憐れっぽい口調ではじめた。
「……ああ、それで、わかった。……あいつ、あんたを煽てて、……あたしを、殺さすつもりなんだ。……あたしを殺し、それから、あんたをのっぴきならぬところへ、追いこもうという、これあ一石二鳥の詐略なんだ……。ここの理窟を……よく考えて見て、ください。……して見ると、絲満をやったのは、……やっぱり、久我だったんだ。……いまにして、思えば、あたしも、やっぱり煽てられていたんです。……まったく、あいつに教唆《シャク》られ、やったことなんです……」
〈われながら巧いことを言った、と思った〉果して、喉がすこし楽になった。
 古田の顔が、ぐっと近くなる。
「てめえ、それあ本当か」
 そう言えば、すこし思いあたることもある、といった風だった。
「けして、嘘などは申しません。……いい齢をして、あんな青二才に教唆《シャク》られたかと思うと、……あたしあ……」
 なんだか泣けそうになってきた。
〈よし、泣いてやれ〉……工合よく涙が流れだしてきた。しゃくりあげて泣いた。
 古田は乾をぐっと引き起すと、
「嘘か本当か、いまにわかる。……嘘だったら、その時あ……」
 そういって、じろりと睨みをくれた。
〈糞でもくらえ。貴様こそ用心しろ。いまに思い知らせてくれるから……〉
 乾はていねいにおじぎをした。
「どうか、ひらにごかんべん願います」
 古田はパチリと鞘音をさせて匕首をしまうと、乾をこづきまわしながら、
「やい! おかげでおれあクビになったんだ。……妹は離縁《しくじ》るしさ、おっ母アは揮発をのむ……まるで、地獄だ。……それもこれも、みなてめえのした業だぞ。……やい、あやまれ! 土下座してすみませんでしたと言え!」
 乾は前をはだけたまま、みじめな恰好で床の上に坐ると、ペコペコと頭をさげた。
「なんともどうも、お詫のしようも……」
 ようやく顔をあげたとおもうと、顎の下へ猛烈な勢いで古田の靴の先が飛んできた。乾は、ぎゃっ、といって、あおのけにひっくりかえった。這いずりながら扉のほうへ逃げようとすると、また脇腹へ眼の眩むようなやつがきた。思わず、うむ、と呻き声をあげた。古田は乾を床へねじ倒す、こんどは胸の上へ馬乗りになって、力まかせに、止めどもなく撲りつづけるのだった……

 戸口に西貝の姿があらわれた。
 呆っ気にとられて、突っ立ったまま、ぼんやりとこの光景を眺めていた。
 最後にひとつ、猛烈なやつを横っ面へくれておいて立ちあがると、古田は西貝を手荒くおしのけ肩をふりながら出ていった。
 長く伸びている乾のそばへよると、西貝はその顔のうえへしゃがみながら、
「おい、どうした」
 と、ふざけた調子でいった。
 上唇から顎へかけて、夥しい鼻血が流れ、暗がりで見ると、急に髯がはえたようにみえるのだった。むくんだように顔は腫れあがり、熱をもってテラテラと光っていた。
 西貝の声をききつけると、乾は腫れあがった瞼をおしつけながら、
「やられましたよ。(と、案外に元気な声でいいながら、そばにころがっている金盥を指さし)すまないが、階下へ行ってそれに水を汲んできてくださいな。……それから、台所に手拭いがあるから……」

 西貝が水を汲んで二階へあがってみると、乾は寝台に腰をかけ、新聞紙をひき裂いては、しきりに鼻孔につめ[#「つめ」に傍点]をかっていた。
「おい、乾老。……いったい、どうしたってんだ」
 乾は手拭いをしぼって鼻梁にあてながら、
「……あたしが密告したのをききこんでやってきたんです。……どうも、ひどい目にあわせやがった」
 すると、西貝はせせら笑って、
「……ふん、そうか。それなら、ま、仕様がなかろう。……いずれ一度はやられるんだ。因果応
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