…ところで蛤橋のほうから巡査がきた。あわてて白鷺橋を渡ろうとすると、その橋詰に交番がある。……この×の印がそうです。島から出ようとすると、どんな事をしてもその前を通らなければならない。止むを得ず後しざりをして、いったん島の奥に逃げこんだ。……やがて、間もなく戻って来て、交番の前を通って、市電の木橋のほうへ行ってしまった……としか考えられません。……なぜなれば、人間一匹が消えてしまう筈はない。のみならず、若い女がそんなところでまごまごしていたら、……危険は一刻毎に増大する。……あの辺は海風が吹いて涼しいものだから巡査が涼みがてらにむやみに巡視をするんです。この辺はなにしろ一目で見渡せる広っ場なんだから、どう隠れたってすぐめっかってしまう。……どうしたって、やはり交番の前を通って出ていったと思うより仕様がない。……ところが、その夜白鷺橋の交番には、しかも二人の巡査がいて、非常に暑い晩だったので、十二時から朝の四時まで交番の前へ椅子を持ち出して涼んでいたのです。ところが、その間女などは一人も通らない……もちろん、ひとは通ったが女は通らない、と言うのです。……僕はハタと行きづまった。苦しまぎれに、いわゆる習得的方法というのをやって見た。現場のまっ只中へ自分をおいてみたのです。……昨日曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、僕がもし犯人なら、こういう条件と地理に於て、いったいこの次にどういう行動を起すだろう……昨日、曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、つくづくと考えて見たんです。……(ニヤリとうれしそうに笑うと)……間もなく到達しましたよ。なんでもなかったです。……つまり、こうなんです。まず、血のついた服をぬいで猿股ひとつになる。服は錘をつけて木場の溜りへ沈める。それから頭と身体をすこし水に濡らして、シャツを小脇に抱えてスタスタと交番の前を通って行ったんです。……この辺の住人はひどく無造作で、暑くて寝られないと、夜でも夜中でも海へ泳ぎに出かけるんですね。もちろん裸の道中です。巡査も馴れっこなので、べつになにも言いやしない。……こういうわけで、犯人はなんのおとがめもなく関所を通りぬけたのです」
 西貝が、くっくっ、と笑いだして、
「女が猿股ひとつになって、交番の前を通ったって、それで無事だったのかい」
 那須はニコリともせずに、
「そうさ、女ならそんな芸当が出来るはずはないから、それでその人物は男だったという結論を得たのだ。この推理には間違いがない。嘘だと思ったら曲辰の溜堀の底を浚って見たまえ、必ずその服が出てくるから。……(そして、久我のほうをむくと)どうでしょう……?」
 と、いった、久我は那須の眼を見かえしながら、
「適切ですね、敬服しました」
 と、いった。那須は急に顔をひき緊めると、低い声で、
「久我さん、殺したのはあなたでしょう?」
 座敷のなかは急にひっそりとしてしまった。古田が、ごくりと喉を鳴らした。
 久我が、しずかに口をきった。
「それはお答え出来ません」
 両手を膝に置き、自若たる面もちだった。那須はうなずいて、
「勿論ですとも。あなたにその意志がなかったら、答えてくださる必要はありません。……では、最後にひとこと……。僕の推理はだいたい成功しているのでしょうか」
「私の感じたままを申しますと、だいいちあなたのは推理ではなくて奇説《ドグマ》だと思うのです。……仮りに、あの夜私が女装して〈那覇〉にいたとしても、それだけでは私が殺したという証明にはならないからです。ここでは、女装[#「女装」に傍点]と殺人[#「殺人」に傍点]という二つの状態が、関係なくばらばらに置かれているにすぎません。この二つの名詞を結びつけて、意味のある文章にするには、どうしても繋辞《カップル》が必要なのですが、どこにもそういうものが見あたらない。私が殺したという。が、それに対する論理的な証明を全然欠いているからです。……警察ならば、臆説であろうと、仮定であろうとかまわない。あとは訊問でひっかけて、自白させるだけのことですが、あなたの場合は論理的に到達しようというのだから、こんなことではいけないのでしょう。……それから、女装のほうですが、それが私だというのは、どういう根拠によって判断されたのですか?」
「五人の遺産相続者のなかで、その資格を持っているのは、あなたの外にないからです」
「犯人が五人[#「五人」に傍点]のなかにいなければならぬというのは、どういう理由によるのですか?」
「……あの〈遺産相続の通知〉は捜査の方針を混乱させる目的で計画されたトリックだということは、いうまでもありません。あの通知で何人かの人間を殺人の現場へよびよせ、否応なしに殺人事件の渦中へひきずりこんでしまう。それで情況を複雑にし、自分の犯跡を曖昧化し、うまくいったら、自分の罪を
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