「やまいだれ+発」、37−上−1]人でたのみにならない。ここから逃げだして、世の中で生きてゆくには、自ら営々とその力を養うほかはないことを覚った。ただひとり、彼女に力をあわしてくれたのは、一週に三度ずつやってくる、若い女の家庭教師だった。葵は、あらゆる方法を、感情を、手芸を、世間を孜々としてこの婦人から学びとった。葵は十八歳の秋に家をすてた。五島列島の福江島へゆき、そこの、加特力《カトリック》信者の漁師の家に隠れた。(これは家庭教師の生家だった)二十一の春までそこで暮らし、神戸のダンス・ホールで二年ちかく働き、二た月ほど前に東京へ帰ってきて〈シネラリヤ〉へ通いはじめた。
葵が警察で自分の過去をうちあけなかったのは、こんどひき戻されると、もう、久我に逢うすべがなくなるからであった。(正明は健全で、しきりに彼女の帰宅を待ちわびている)こういう場合警察が彼女の味方をするべきいわれはない。六年前の捜査願を適用して、完全にその職能をはたすであろう。
久我を偽っているのは、ひとえに、彼女の劣性家系を知られたくないからだった。たぶん久我は彼女の血のなかにも、不適者の因子を想像して、たちまち、面を蔽って逃げだすであろう。真実を言うために久我を失うのは、耐えられないことだった。……それに、すでに嘘をいいすぎている。もう、とりかえしがつかないのだった。葵は告白しないことに決心している。
それにしても、久我は美しかった。恋人として見るときは、不安を感ぜずにいられないほど、端麗な顔をしていた。こんな青年が警視庁にいるとは信じ難いほど、優雅な挙止をもっていた。〈シネラリヤ〉へ集ってくる最も貴族的な青年たちですら、久我ほどの|典雅さ《エレガンス》はもっていないのであった。
いまでは、葵は久我の真実と、愛情にいささかの疑も持っていなかった。彼は葵を警察から〈釈放〉さえしてくれたのである。これが愛されている証拠ではなくてなんであろう。たぶん、そう信じていいのに違いない。
その美しい容貌にかかわらず、久我の性情は堅実だった。そのうえ、彼はすぐれた詩人だった。もう五年……、すくなくとも、四十になるまでには、彼は、なにかひとかどの仕事を成しとげるであろう。家庭にいて、自分もそれに協力するのは、楽しいことに違いなかった。一日もはやく、ダンサーなどはよさなくてはならない。彼のために、そうするのが至
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