…」
「……僕、……僕にやらしてくれ、……いくら……」
 がくがく、と卓のほうへのめりながら、久我はポケットへ手をつっこんで、裸の紙幣をつかみだした。

 丁度その頃、雨田葵は、文園アパートの貧しい寝床のなかで眼をさます。
 葵は苦しい夢を見ていた。どんな夢であったか、思いだすことは出来なかったが、多分それは、自分の過去の、酸苦なある一日の出来ごとらしかった。……彼女の過去には、ここではふれぬことにしよう。
 ……彼女の過去は陰鬱な雲にとざされ、嗟嘆の声にみちみちてはいたが、しかし、彼女がはじめて久我千秋に逢ったときは、東京でのある悪夢のような一日を除くほかは、やや幸福であった(と思える)十二三歳の頃の彼女と、すこしも変ってはいなかった。
 彼女は横顔には、いまもなおその頃の、童女のおもかげをのこし、こころも肉体も、そのころのままに無垢であった。葵の愛嬌のいい、明るい顔つきは、ほとんどすべての男性に好かれた。〈シネラリヤ〉で働くようになってからも、すでに五六人の男友が出来た。そのうちの三人は結婚を申込んだ。(その中にはひとりの公使さえいたのである)しかし、彼女はそのいずれをも愛してはいなかった。(彼女の二十三年を通じて、彼女は、嘗つてなにびとも愛しはしなかった)
 葵が〈那覇〉で、はじめて久我のとなりに坐ったとき、彼女はまず、端正な久我の美しさに狼狽せずにはいられなかった。つづいて久我に話しかけられたとき、とりのぼせた彼女の耳は、なにを語られているのか、ほとんど理解することが出来なかった。
 彼女の知覚がようやく恢復したとき、こんどは、彼女は阿呆のようになっていた。……正確に言えば、彼女は臆病になり、粗野になり、相手の気にいりそうなことすらひとつ言えない、もの悲しい、不器用な娘になり切っていた。
 久我がはじめて〈シネラリヤ〉を訪れたとき、はじめ、葵には現実だとはどうしても信じられなかった。それほど思いがけなかったのであった。この喜びは彼女を溺らせて、狂人のようにしてしまうほどであった。
 久我がアパートまで葵をおくり届けたいと申出でたとき、彼女は不覚にも涙を流したのだった。
 葵は自分の部屋へはいると、いそいで着物をぬいで、スキーヤーのように白い寝床のスロープへ辷りこんだ。そして(あたしは、もうひとりではない)と、うかされたようにいくどもつぶやいた。いま、葵の部屋
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