ましょうね。……そのかわり、あとで、あたしと踊ってちょうだい」
 気軽に立ちあがると、階下へ駆けおりていった。
 葵があがって来た。ホールの入口に立って、奥のほうを見まわしている。酒場台《コントワール》のほうからくる琥珀《こはく》色の光が、ほとんど子供じみた彼女の横顔を浮きあがらせていた。脆そうな首筋、白い芥子のようなうすい皮膚。二十三でいて、そのくせ子供のようにも見える、あの不思議な典型的な「東京の女」の顔であった。
 久我を見つけると、葵は瞬間立ち竦んだようになって、それから、あまり劇しく身動きすると幻が消えてしまうとでも思っているように、そろそろと用心深い足どりで近づいてきた。
「……まあ、……でも、よく……あたし……」
 顔をかがやかせ、感動のために口もろくにきけない風であった。久我は、言葉をさがしながら、けっきょく、
「今晩は……」
 と、それだけいった。いかにもまずい挨拶であった。
 葵をアパートまでおくり届けると、久我はこころがときめいて、とてもこのまま眠られそうもなかったので、自分も自動車からおりると上衣をぬいで腕にかけ、快い初夏の夜風に胸を吹かせながら、あてもなく、またぶらぶらと新宿の方へ戻りはじめた。
 久我はこの東京にひとりの知人もなかった。都会の孤独は、久我にとっては、じつにやりきれないものだったので、今晩の葵のやさしさは、こころの底まで沁みとおるようであった。
〈……葵も東京でひとりぽっちだと言っていたようだった、と彼はかんがえる。……あんな美しい娘が、どうしてひとりぽっちなのだろう。そういえば、病身らしいところはある。……あまり子供っぽい顔をしているからかしら。すこし、明るすぎる。……あの種類の顔は、見るひとに、いつも郷愁を感じさせる顔だ。二年前なら、このテエマでおれは詩をつくっていたろう。……しかし、いまは、すくなくともおれは詩人じゃない。……おっと、これは失礼〉
 久我がこんなことを考えながら歩いていると、そこの路地から出て来た男に突きあたった。
「や、これは失礼」
 と、その男も帽子をとりながら、久我の顔を見ると、急に剽軽《ひょうきん》な調子で、
「これはこれは、なんたる奇遇!」
 酒鼻……西貝計三だった。
 久我も驚いて、
「おう、これは意外でした」
「こんなところで出っくわそうとは思わなかった。……どうです、もしよかったら、その
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