警部は菜葉服のほうへ顎をしゃくった。
「古田子之作。深川区富岡町二一七。〈都タクシー〉で働いております」
「運転手か」
「へえ、運転もいたしますが、いまはおもに古自動車をなおす方をやってるんで。……住居は、そこの二階で寝泊りしております。(頭をかきながら)まだ嬶《かかあ》はございません。へえ、三十三でございます」
 警部は手帖をしまいながら、もう自由にひきとってよろしい、といった。青年が警部の前へすすみでた。
「私はまだすんでおりません」
 警部は、すこしてれながら、
「ああ、……君は?」
「私は四日前に台北から上京いたしまして只今は麹町〈南平ホテル〉に泊っております。もとは青島《チンタオ》の貿易商会につとめておりました。現在は無職……失業中なのです。……久我千秋《くがちあき》。明治三十五年生れ」
 そういって、上品なおじぎをした。
 五人はわいわいいう弥次馬をおしわけながら街路へでた。
 久我が片手をあげる。久我と葵をのせて、自動車は走り去った。

     2

 御苑裏の暗い街路に、〈シネラリヤ〉が夜の花のようにほの明く咲いていた。
 階下は喫茶店になっていて、白い紗のカアテンをすかして、椰子の葉と常連の顔を見ることが出来る。しかし、二階のダンシング=バアの方は、さように開放的ではない。肉色のカアテンが、|薄い下着《シュミイズ》のようにその肉体を蔽いかくしている。
 ここに集まるひとびとは、いわゆる、大東京の通人《ラフイネ》たちである。この都会の最も装飾的な要素であり、東京の「遊楽街《リユ・ド・プレエジール》」の伝説口碑に通暁しているすぐれた土俗学者たちだ。多少は互いの身分を知り合い、いくらかずつは、互いに肉親的なものを感じている連中である。
 バアの広間の中央は、「踊り場」になっていて通人《ラフイネ》たちは、そこで非合法的に踊る。この愛すべき秘密は、ある素朴《プリミチフ》な方法によって保たれていた。
「常連」以外の男がはいってくる。(これは風紀巡査かも知れないのだ)すると、信号の蝉鳴器《ブザ》が低くうなりだす。階下からの合図だ。二階のタンゴは、そこで、片足をあげたままで停まらなくてはならない。……この冒険が〈シネラリヤ〉の魅力になっているのであった。

 その日の夜十時頃、久我千秋は〈シネラリヤ〉の扉をおす。入口の勘定台には柔和な顔をした老人がいて、久我を
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