ゃならないの?」
「あとでわかるから……穂高はだめ。上海か青島か、なるだけ遠いところへ……」
「穂高? どうしてそんな事を……」
「だから、毎日あとを尾行《つけ》てるって言ってるじゃないの。……(手提のなかから白い分厚な封筒をとりだすと、それを久我のほうへ押しやって)このなかに三百円はいってるんだ。だから、これを……」
それをおし戻して、
「こんな世話になるわけはない」
「でも、借りるあてがないのでしょう」
「大丈夫……すぐ、手にはいる」
「じゃ、逃げてくれる?」
「逃げるなんてことはしない。少し旅行したくなっただけだ」
「いつ?」
「あす……、はやければ今晩」
ながい溜息をついて、
「安心したわ。……(そして久我の手を自分の胸へおしつけると)じゃ、どうぞ、いつまでもいつまでもお丈夫でね」
唇の端をこまかく震わせながら妙な顔をしていたが、突然、久我の指をきつく噛むと、やい、馬鹿やい、といった。
うるんだような眼をしていた。
「おい!」
久我が低い声で呼ぶと、草のなかから山瀬が、むっくりと起きあがった。明治製菓の北裏の、この辺で射的場といっている原っぱだった。久我が草の上へ紙づつみをひろげた。そのなかに葡萄パンが五つはいっていた。山瀬はそれをとりあげると、あわてたように口へ押しこんだ。削痩《さくそう》した頬に夕陽があたって、動くたびにそこが鉛色に光った。
「うまい……」
久我の顔を見あげて微笑すると、ピクピク肩をふるわせながら、またうつ向いていっしんに喰べつづけた。ときどきグッと喉をつまらせては苦しそうに涙を流した。野良犬がものを喰べているようだった。この容貌魁偉な大男がこんなようすをしているのは、なにか一種のはかなさがあった。
久我が、いった。
「……ずいぶん、しゃべった。じゃ、これで別れるか。……すこしきいてもらいたい話があるんだが、そんなことをしてる時間もないな」
山瀬は口を動かしながら、
「かまやせん。もう当分逢えないかも知れないから、お互いに、言いたいことを言おう。心残りのないように。……それはどんな事か」
久我は苦笑して、
「下らないと思うだろうが、実はあの晩、僕は女装して〈那覇〉へ出かけているんだ」
「つまり応化《アタプテーション》だな。……どうして、なかなか適切だよ」
「まあ、そう言うな。はじめからそんな気でやったわけじゃないんだ。
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