ら巡査がやってきた。あわてて一丁目の角を右に曲って、一直線に深川塵芥処理工場の方へゆく。そこの近くにある曲辰の材木置場のところまで行って、そこで、突然に大地へとけこんでしまったのです。(久我の顔を見つめながら)ここまではどうでしょう?」
 久我は微笑しながら、いった。
「面白いですね。よく判ります。それから?」
 那須はますます能弁になって、
「……ところで、この犯罪の最も短い半径内に、容疑者の権利をもつ二人の女性がいます。ひとりは、絲満の以前の情婦で……いま〈フレンド荘〉をやっている朱砂ハナ。もうひとりは、久我夫人すなわち葵嬢。……だが朱砂ハナのほうは、事件のあった十八日以前に、密淫売のかどで検挙《アゲ》られて、事件の当夜は洲崎署の留置場にいたんです。……まずこれ以上の完全な不在証明はありません。そこで、久我夫人のほうですが、これは二十二三で、上品、すらりとした美人です。本来ならば、なんとしてもまぬかれないところです。つまり美人なるがゆえに、こういう災難を蒙ることになった。美人になりたくないもんです。が、このほうも幸いなるかな、完全に近い不在証明があった。その夜は、夜の八時から十二時まで〈シネラリヤ〉に働いており、十二時半からつぎの朝まで、ちゃんと自分のアパートにいた。のみならず、〈那覇〉のボーイが、この女ではない、と断言した。うしろ姿だけ見ていて、当否の断定を下した。……なかなか秀才ですよ、こいつあ。冗談はともかくとして、こういう工合だから、Cという女の値は依然としてXのままで残ることになった。のみならず、忽然として深川の一角で消滅してしまったというんだから、なかなかただもんじゃない……人間がとけてなくなる。そんなことがあり得る筈はない。いずれどこかにチャンと切穴が明いてるんです。……そこで、ひとつ実地に魔術の舞台を験めて見る必要がある。……(そう言いながら、ポケットから手帳をとりだすと、精細に書きいれた地図を示して)ご覧の通り、殺人のあった枝川町一丁目は四方を海と掘割で囲まれた四角形の島です。この島を出て深川の電車路へゆくには、この蛤橋を渡って浜園町へ出るか、この白鷺橋を渡って塩崎町へぬけるか、それ以外には道がない。……いったい深川というところは、まるでヴェニスのように、孤立した島々が橋だけでつながっているようなものですが、ここ位い不便なところも少いのです。…
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