炉の傍に机をすえて報告書を書き出したが、船のことばかり気にかかって捗らない。この大時化では予定した日に島を離れることなどは望めない。氷と岩のほか、なにひとつ見るものもない荒凉たる孤島で、あてもなく幾日か暮さなければならぬと思うと、漂流者のように暗澹たる気持になり、仕事をつづける気にはなれない。
 一、いつの間にか仮睡をし、眼をさますと夜になっていた。水を飲もうと炊事場の水槽《タンク》のあるほうへ行きかけ、ふと狭山の寝台の下に、茶褐色の犬のようなものが蹲っているのを発見した。しゃがみこんで眺めると、二歳ほどの膃肭獣の牝で、しなやかな背中をこちらへ向け、前鰭で頭を抱えるようにして、おとなしく眠っていた。これが昨夜の唸声の主なのであった。
 どうしてこんなところに膃肭獣がいるのかとたずねると、狭山は、去年の秋、皆にはぐれ、海と反対の追込場の方へはいあがってきたのを捕えて飼っておいたのだが、子供のようになついているとこたえた。寝台の下に手を入れて膃肭獣の背中を軽く叩くと、膃肭獣は眼をさまし、伸びをするようなことをしてから、ヨチヨチと寝台の下から匍いだしてきた。
 しなしなと身体を撓《しな》わせ
前へ 次へ
全51ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング