克明に頁を繰っていくうちに、十二月廿日の日附の下に、つぎのような記載があるのを発見した。
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十二月廿日、晴天……昨十九日午後五時頃、本島ノ NWN ニ多数ノ漂氷ヲ見シガ、同夜半以来急速ニ発達シテ野氷ヲ形成ス。海岸ヨリ氷堤ノ縁辺マデ約五浬ニ及ベリ。
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この記載によって私は屍体は海中に投棄されたのではないと断定を下した。娘はたしかに十二月廿七日まで生存していたはずだが、それより一週間前の十二月廿日に、海は五浬の沖まで結氷している。凸凹のはげしい氷原を五浬も屍体を運搬するのは困難な仕事であるばかりでなく、野氷の極限はつねに不正確なもので、表面から見ただけでは、浮遊する群氷と、堅固な野氷との区別がつかない。死体を海中に投棄するには、勢い氷原の極限まで行かなければならないが、自殺するつもりでなければ、実行は覚束ないからである。
私は塩蔵所の岩蔭になにか夥しい白骨が散乱していたことを思いだし、帰途、大廻りしてそこへ行き、胸をとどろかせながら掻きさがして見たが、海象や膃肭獣の骨があるばかりで、人骨などは見あたらなかった。
私は避難所の煖炉のそばに坐りこみ、血のように赤い薔薇の花簪を手のなかで弄びながら、いったい、どういう素性の娘であったろうと考えた。
第七日
午前九時ごろ、ふとした想念が心をかすめ、半睡のうちに微弱な意識でそれを保っていたが、覚醒すると同時に、きわめて明白なかたちになって心の上に定着した。
彼女はこの島に生存しているのではないのか。この島に若い娘がいたとしても、それは彼等の生活の権利内のことであって、格別、隠しだてしなければならぬような性質の事柄ではない。また、その娘を殺害したとしても、死体はたぶん無造作に放置されたであろうということである。
この樺太には(その当時)一人の人間の死を、とやかくと問題にするような神経過敏な風習はない。死はひとつの「措定」であるとして、原因まで詮索しないのである。必要があれば、崖から落ちて死んだとでも、脚気が衝心して死にましたとでも、いいたい放題のとぼけたことをいってすまされるのであるから、横着な彼等が、いかなる理由によっても、死体の湮滅などを企てようはずがない。
ところで、その死体はどこにもない。湮滅さるべき理由がないのに、この島のどこにも死体が見当らぬとすれば、死亡したと考えるより、まだこの島に生存していると考えるほうが妥当である。
感傷的な探検の結果、どこにも彼女がいないということが確実になったが、それにもかかわらず、論理的には、彼女は絶対にこの島に生存していなくてはならぬのである。
彼女はどこにいる? 生存可能の限界を条件とすれば、遮蔽物もない零下二〇―三〇度の凛烈たる大気の中に、持続的に人間が生活し得るはずがないから、どうしても人夫小屋の中でなければならない。しかるに、小屋の中には三個の生物しか住んでいない。私と狭山と膃肭獣である。
論理の必然に従って、この小屋の中に絶対に彼女が生存していなければならぬとすると、この三個の生物のうちのいずれかが彼女でなければならぬことになる。ところで、私はかくいう私で、狭山は依然として狭山以外のものではない。
私はものを思うことに疲れ、長くなったまま眼をとじていたが、なんともいいあらわしがたい率然たる感情に襲われ、急に木箱の上にはね起きた。
この島はなにか不可知な神秘力に支配されていて、ここに来るものは、みな膃肭獣に変形されてしまうのではなかろうかという考えが、なんの前触れもなく、秋の野末の稲妻のように私の脳底にきらめきいり、深い闇に包まれていたもののすがたを、一瞬にして蒼白く照らしだした。
そういえば、狭山は一日ごとに膃肭獣らしくなっていく。顱頂は次第に扁平になり、喉の贅肉は日増しに奇妙なふうに盛りあがってきて、いまはもう頤と胸のけじめをなくしかけている……わずかに、人間のかたちをとどめている手や足も、間もなく、五本の溝のついた、グロテスクな鰭に変形してしまうのだろう。とすれば、あの膃肭獣こそは、彼女のあさましい変容なのだと思うべきである。
幾万という膃肭獣が、毎年、夏になると、なぜこの島にばかり集ってくるのか、その謎をそのとき私ははっきりと解いた。この島の渚で悲し気に咆哮する海獣どもは、この島の呪いによって、生きながら膃肭獣に変えられた不幸な人間どもなのであった。そうして、一日も早く人間に転生しようと、撲殺されるためにはるばる南の海から、この不幸な故郷へやってくるというわけであった。
最初の朝、この島を一瞥するやいなや、救いがたい憂愁の情にとらえられたわけも、これで納得できる。なぜとも知らず、なにに由来する憂愁か、理解することができなかったが、今にして思えば
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