、飛んでもございませんこと……」
「ど、ど、どうつかまつりまして」
加代姫は、片額《かたびたい》に翳《かげ》がさすような、なんとも凄味のある薄笑いをチラと浮かべて、
「遠慮をしないでもいいのだよ。……お出し。……盃を出せ、酌をしてとらせる」
顎十郎は、とど助の膝をつき、
「とど助さん、こりゃア凄いことになりました。……逃げましょう。こんなところでマゴマゴしていたら、えらいことになります」
とど助は、眼玉をギョロギョロさせて、
「いかにも! 逃げまッしょう、とてもかなわん」
「いいですか。じャ、ひい、ふう、みいで驀地《まっしぐら》に飛びだすんですぜ」
「心得もうした。じゃア、掛け声のほうを……」
ひい、ふう、みい……まるで暗闇坂《くらやみざか》でひとつ眼小僧にでもあったときのよう、大きな図体《ずうたい》をしたふたりが、わあッ、と声をあげながら一目散《いちもくさん》に居酒屋から逃げだした。
毒流し
秋葉《あきわ》の原の火避地《ひよけち》。
原の入口に大きな樗《おうち》の樹があって、暑い日ざかりはここが二人の休憩場《やすみば》になっている。
朝がけに両国まで客を送って行って、これでこの日の商売はおしまい。どっちももう働かないつもり。通りがかった枇杷葉湯《びわよとう》を呼びとめて、しごくのんびりした顔で湯気を吹いてるところへ、息せき切って駈けて来たのが、北町奉行所支配のお手先、神田屋の松五郎。
鷲づかみにした芥子玉《けしだま》の手拭いでグイグイと頸すじの汗を拭いながら、
「ここへさえ来りゃ、かならずひっ捕まえることが出来ると見こんですっ飛んで来たんですが、それにしても、まア、うまく捕まえた」
「おい、おい、ひと聞きの悪いことを言うな。黒のパッチに目明し草履、だれが見たって御用聞と知れるのに、捕まえたの追いこんだの、枇杷葉湯《びわよとう》がびっくりして逃げ腰になってるじゃねえか。おりゃア、お前にひっ捕まえられるような悪いことをした覚えはねえぜ、いい加減にしておけ」
ひょろ松は、うへえ、と頭へ手をやって、
「こりゃ、どうも失礼。口癖になってるもんだから、つい……これはとど助さん、今日は」
「あんたはいつも裾から火がついたように駈けずりまわっているが、よくすり切れんことですのう」
「こりゃアどうも、さんざんだ」
「それはそうと、ひょろ松。いったい、なん
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