。
小屋の前にはたいへんな人だかり。
「けさがた、鯨が盗まれてしまったンだそうで」
「いいえ、そうじゃありません。鯨が泳いで逃げたってことです」
勝手なことを言いながらワイワイ騒いでいる。
ひょろ松は、人垣を押しわけながら小屋の中へ入って行くと、若太夫から奥役、まるで腑ぬけのようになって腕組みをしたままぼんやりと飾場の砂の上に突っ立っている。
「鯨が盗まれたそうだな」
奥役は、泣き出しそうな顔で、ピョコンとお辞儀をしてから、
「ごらんの通りの始末なンで」
「変ったことをする奴があればあるもの。鯨盗人なんてえのはまだ話にも聞いたことがねえ。いっそ、とぼけた話だぜ」
「とぼけた話どころか、あっしどものほうは生き死にの境なンで。櫓主が五百両も出した代物《しろもの》を、たった二日あけただけで跡形なしになってしまっちゃ、どうにもアガキがとれやしません」
ひょろ松は、ズイと菰掛《こもかけ》のほうへ寄って行って、掘立柱の根方のところをひとわたり調べまわっていたが、また皆のところへ戻って来て、
「どこにも運び出したような跡がねえ。いってえ、鯨なんていうのは、最初っからいなかったんじゃねえのか
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