ッ、本当ですか。いったい、ど、どんなことをして持って行きやがったンでしょう」
顎十郎は、なにをくだらんといった顔で、
「なにもいちいち掘立柱の根を調べるには当らない。どうしたって丸一疋のままで持って行けるわけはないとすれば、切りきざンで小さくして持ちだしたのに違いなかろう、きまり切った話だ」
「でも、切るにしたって、あんな大きな物を」
「一人二人じゃ出来なかろうが、三十人も手わけしてかかれば一刻ぐらいで造作もなく片がつく。最初っから臓腑は抜いてあるンだし、脂抜きはしてあるし、腹の中はガラン洞で、鯨といったってただ骨と肉だけのこと。挽ききるにしろ、刻むにしろ、どうでも手に負えないというような代物じゃない。になって持ちだせるくらいの大きさに刻めば、後は三十人で二三度往復すれば、肉ひとっぺら残さずに運び出してしまうことが出来る。なンとそんなもンじゃなかろうか、なア、ひょろ松」
ひょろ松は、手をうって、
「なるほどね、これは恐れ入りました。が、ひとつわからないことがあります。最初に勘八というのがおりて来て、お次に下座三味線の秀という女がおりて来た。二人がおりて来たときには鯨はたしかに飾場にあったンです。ところで、その次によだ六がおりて来たときには、もう鯨は失くなっている。秀が櫓裏へあがって、よだ六がおりて来たそのあいだはわずか十分足らず。切るにしろ刻むにしろ、そんな短いあいだにあれだけの物を始末できるものでしょうか」
「こいつア驚いた。勘八も秀も鯨にさわって見たとは言っていやしない。しかも、飾場からずっと遠い桟敷の嶺で月の光でぼんやりそれらしい物がいると見ただけのこと」
と言って、飾場の真上に渡した梁丸太にからみついている五つばかりの輪索《わさ》のような物を指さし、
「おい、ひょろ松、あれをなんだと思う。妙なところに妙な物があるじゃないか」
「あれが、どうしたというンです」
「わからなければ言って聞かせてやる。そいつは鯨を描いた大きな絵幕をあの梁からつるし、その後でゆっくりと鯨の始末をしていたのだ。あの輪索がなによりの証拠。つまり、勘八と秀は絵幕に描いた鯨をぼんやりした月あかりで見て、あそこに鯨がいると思っただけのことだ。どうです、ひょろ松先生、合点が行きましたか」
ひょろ松、
「いや、一言もございません。鯨を持って行った方法はそれでわかりましたが、くどいようだが、なんのためにあんな物を持って行ったのでしょうか。丸一疋で持って行ったら見世物にもなろうが、切りきざんでしまったらなんの役にも立ちゃしない」
「おれも先刻からそれを考えているンだが……」
と言って、伏目になって考えこんでいたが、だしぬけに、阿古十郎が、
「おい、ひょろ松、一昨日の晩、お前は伏鐘をどこへ追いこんだと言ったっけな」
「芝浦です」
「なるほど。それで、この鯨はどこへあがったンだ」
「芝浦です」
ひょろ松は、急に横手をうって、
「あッ、畜生、すると、伏鐘のやつは……」
顎十郎は、ニヤリと笑って、
「海岸まで追いつめてもいねえはずだ。あいつは切羽つまって、ちょうど陸あげした鯨の口ン中へ飛びこんで隠れていやがったんだ。この鯨が見世物になろうとは、さすがの伏鐘も気がつかなかったろう。入ったまではいいが、気がついて見ると、千、二千という見物にかこまれて、出るも這いだすもなりゃアしねえ。入る時は無我夢中で飛びこんだろうが、小屋へ運ばれて来てから、鯨が寝ころばねえように杭と綱でしっかりと頭を留められ、中から口を押しあけることもどうすることも出来なくなった。乾児のほうじゃ、重三郎が鯨の中へ飛びこんだことだけは知っている。もうそろそろ這いだして来そうなもんだと思っているのに、いつまでたっても帰って来ないから、見物にまぎれて様子を見に来て見ると、いま言ったような始末なんだ。そこで、思いついたのがこの一件さ……」
ひょろ松は、嚥みこめぬ顔で、
「そんなら、頭を縛った綱だけ取りゃアそれですむことでしょう。そんな手間をかけて鯨を切りきざんで持って行かねえだってよさそうなもんだ……」
「そこが、伏鐘組の尋常でねえところだ。下手な真似をすれば、伏鐘はきょうまで鯨の中にいたんだと見当がつき、それからそれと足がつく。こういう大掛りなことをして鯨が昇天でもしたように見せかければ、みなは不思議のほうに気を取られて、伏鐘のことまで考える暇はない。まず、ざっとこんなぐあいだ」
「よくわかりましてございます。心底《しんそこ》、恐れ入りましたが、もうひとつわからねえことがある。……昨日から今日にかけて江戸じゅうに手を配った大捕物。なかんずく、この両国界隈は辻々、露地の入口まで隙間もなく人をくばって蟻の這いでるセキもなかったはず。北へ行けば、両国橋か千歳橋。南へ行けば両国二丁目の辻番か中ノ橋の辻番
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