そのたびに難儀をいたしますから、羽黒山《はぐろさん》の千里丸《せんりがん》をいつも切らさずにこの印籠へ入れておくんです。……昨晩の火事さわぎで無理にからだをつかったと見え、七ツごろあっしが夜網から帰って来ますと、また癪でも起しそうな妙な顔していますので、ここはゴタゴタして大変だから土蔵へ行って静かに寝ていたらいいだろうと言いますと、じゃそうします、と言って土蔵へ寝に行きました。……あっしは内所《ないしょ》へ床を敷かせて寝ましたが、疲れていたもンでついさっき叩きおこされるまで、なにも知らずにグッスリと眠っていたんですが、おもんは土蔵へ行ってから急に差しこんで来たので内所まで印籠を取りに来たのだと思います。……なにかほかにまだお訊ねの筋がございますか」
「そういちいち先くぐりをするな。もちろん、こんなこっちゃすみやしない。順々に訊くから、訊いたことに返事をすりゃいいんだ」
 藤五郎は、キッと顔をあげて、
「お言葉のようすですと、なにかあっしに疑いでもかけておいでのように思われますが、あっしがおもんを殺したとでもお考えになっていらしゃるんでしょうか」
「藤五郎さん、お前さん妙なことを言うじゃないか。なんといったってお前さんの家で人が死んでいるんだ。家内に当りをつけるぐらいのことは当然だろうじゃないか。それとも、なにか憶えでもあるというのか」
 ジロリと藤五郎の顔を眺めて、
「けさ七ツごろ、お前さんが夜網から帰って来ると、おもんとなにか大変な口争いをしているのを女中が聴いたそうだが、いったい、どんなもつれだったんだね」
 藤五郎は、グイと肩をひいて、
「そんなことまで申しあげなくちゃならねえんですか」
「まア、そうだ。役儀のおもてで訊いているんだから、ひとつ言って貰おうじゃないか」
 藤五郎は、ちょっと顔を伏せていたが、すぐ顔をあげて、
「あまり言いたくない話ですが、役儀とおっしゃるならやむを得ない、洗いざらい申しあげますが、実は、このごろ、おもんがあっしの留守に、チョクチョク吉兵衛と話しこんでいるらしいンです。……実は、きのうの夜、夜網の出がけに京屋へ出かけて行ったのもそのためで、吉兵衛にあって人の口にかかると外聞が悪いから、そんなみっともないことはよしてくれとそれを言いに行ったわけだったんです。ところが、あっしが夜網から帰って来ると、お仲という女中が、旦那、昨晩もまた京
前へ 次へ
全16ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング