「なにを言ってるんです。背に腹どころじゃない、わたしなんざ、腹の皮が背中にくっつきそうだ」
「であるからして、思い切ってやろう」
「急に血相を変えて、なにをやるというんです。辻斬《つじぎり》なんぞ、いやですぜ」
「いかに渇しても、辻斬なんぞはせん。一杯飲もう」
「銭がなくて、どうして酒が飲めるもんですか」
「そのくらいのことは、わしも存じておるが、法をもってすれば、飲めんことはない。後はわしが引きうけたから、我善坊《がぜんぼう》の泥鰌屋へ行こう」
「でも、あのへんは伊勢|駕《かご》の繩張だから、下手なことをすると、ぶったたかれますぜ」
「なあに、かまわん、かまわん。わしがうまい工合にやる。心配せんとついて来まっせ」
 空駕籠をかついで仲町《なかまち》から飯倉片町《いいぐらかたまち》のほうへやって来ると、おかめ団子《だんご》のすじかいに、紺暖簾《こんのれん》に『どぜう汁』と白抜にした、名代の泥鰌屋。駕籠舁、中間、陸尺などが大勢に寄って来てたいへんに繁昌する。
 泥鰌鍋のほかに駕籠宿もやっているので、奥まった半座敷には、駕籠舁の若い者がいつも十人二十人とごろっちゃらしている。
 軒下へ駕
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