いい月ですね」
「ああ、いい月だな。腹鼓でも打たんかい」
「あれは秋のものですよ。こう寒くちゃ、とてもいけません、腹が冷えますから」

   葛西囃子《かさいばやし》

 狸穴坂の欅の樹の下で待っていると、毎晩ひとりずつチョロリと暗闇から出て来る。
「たぬきか?」
「はい、たぬきです」
「さア、乗れ」
「連れて行ってくださいまし」
 堅気なふうなのもあり、武士もあり、また衣《ころも》をつけてくるのもある。いずれもひと癖あり気な、眼のキョロリとしたやつばかり、人間ならば、人相が悪いというところ。しかし、狸なんだからとがめ立てをしたってしょうがない。
 護国寺のわきを入って豊島ガ岡、奥深い森につづいた茫々の草原の入口で駕籠をおろすと、狸め、びっくりしたような顔で、
「おや、こんなところなんでございますか」
 と、恍けたことをいう。
「これが約束の場所だ」
「へい、そうですか。では、ここで降りましょう」
 すると、原っぱの奥で、きまって、ポンポンとかすかな鼓の音がきこえる。腹の丈夫な狸がいてここだという合図の腹鼓をうつのらしい。
 その音をきくと、狸は、嬉しそうな顔をして、
「ああ、あそこら
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