に応ずるというのは、おもしろい。……近来、叔父の煽《おだ》てもきかなくなって、久しく物のかたちをしたのも咽喉を通さなかった。いずれ、なにか変った趣向があるのだろうが、ちょうどいい折だから、かまわず出かけて行って遠慮なしに御馳走にあずかることにしよう」
馬鹿な顔で、陽ざしを見あげているとき、すぐそばの瑞雲寺《ずいうんじ》の刻《とき》の鐘、ゴーン。
「いま鳴る鐘は七ツ半。……定刻には、まだ、たっぷり一刻半はある。これは、どうも、じれってえの」
数寄屋《すきや》
四谷|左門町《さもんちょう》。路をへだてて右どなりが戸沢主計頭《とざわかずえのかみ》の上屋敷。源氏塀《げんじべい》の西がわについて行くと、なるほど、欅《けやき》の裏門がある。猿《さる》を引《ひ》いて潜戸《くぐり》をおすと、これが、スッとひらく。御影石《みかげいし》だたみの路を十間ばかりも行くと、冠木門《かぶきもん》があって、そこから中庭になる。あまり樹の数をおかない上方《かみがた》ふうの広い前栽《せんざい》で、石の八ツ橋をかけた大きな泉水がある。
顎十郎は、淡月《たんげつ》の光で泉水の上下《かみしも》を眺めていたが、
「手紙には、泉水のへりについて、とあった。橋を渡れとは書いてなかったようだ。するてえと……」
築山《つきやま》のむこうに、鉾杉《ほこすぎ》が四五本ならんでいて、そのむこうに、ぼんやりと灯影《ほかげ》が見える。
「うむ、あれだ、あれだ」
と、うなずいて、そちらのほうへのそのそと入りこんで行く。
柴折戸。そのむこうが露地になり、柿葺《こけらぶき》の茶室が建っている。手紙にある通り、かまわず広間の縁から茶室に入って行くと、なるほど、向床《むかいどこ》の前に大きな朱色の繻珍の褥がおかれ、脇息に煙草盆。書見台の上には『雨月物語《うげつものがたり》』。乱れ籠には、小間物の入った胴乱《どうらん》から鼻紙にいたるまで、なにからなにまで揃っている。
顎十郎は、横着千万《おうちゃくせんばん》な面がまえで、委細かまわず繻珍の大褥の上へのしあがって、キョロキョロと部屋の中を見まわす。
床柱は白南天《しろなんてん》、天井が鶉杢目《うずらもくめ》で、隅爐《すみろ》が切ってある。いかにも静寂|閑雅《かんが》なかまえ。こんなふうにしていると、なんだか御大藩の家老にでもなったような鷹揚な気持になる。
なんとなく面白くなって、ニヤニヤしていたが、間もなく手持無沙汰《てもちぶさた》になって、となりの部屋のほうへむかって、
「ああ、これ、これ」
と、叫んでみた。
いやまったく! これのれ[#「れ」に傍点]の字も言いおわらぬうちに、それこそ、打てば響くといったふうに、母屋へつづく渡り廊下のほうに軽い足音が聞え、瓦灯口《がとうぐち》の襖がしずかに引きあけられて、閾《しきい》ぎわに、十七八の、眼のさめるような美しい腰元がしとやかに手をつかえた。
さすがの顎十郎も、いささか毒気をぬかれたかたちで、
「うへえ、こいつア凄えぞ」
と、口のなかで呟きながら、なんとなく頬の筋をゆるめてあらためて仔細に眺めると、いや、これはたしかに美しい。
早咲きの桃の花とでも言いましょうか。頬がポッと淡桃色で、文鳥のような、黒い優しげな眸《め》で、じッとこちらをうかがっている。
得《え》もいわれぬ馥郁《ふくいく》たる匂いが、水脈《みお》をひいてほんのりと座敷の中へ流れこんで来る。
伽羅《きゃら》のように絡《から》みつくようなところもなく、白檀《びゃくだん》のように重くもない。清《すが》々しい、そのくせ、どこかほのぼのとした、なんとも微妙な匂いである。
この家の主人の気質は、手紙の文脈からも、だいたい察しられたが、香木五十八種の中にもないような、こんな珍らしい香を惜しげもなく焚《た》きしめるというなどは、よほどの風流。客を応待する心の深さもしのばれて、なかなか奥床《おくゆか》しいのである。
さて、顎十郎は、そういう馥郁たる匂いを嗅ぎながら、ややしばらくのあいだ、文鳥のような優しい眼と睨めっこをしていた。いや、睨めっこといっては少し違うかも知れない。砕いて言えば、腰元の美しい眼ざしが、顎十郎の呆けた眼玉にしんねりと絡みついて、なかなか放さないのである。そういう工合なもんだから、顎十郎のほうも眼をそらすわけにはゆかない。いきおい、睨めっこのような工合になる。
気まずいようでもあり、また、そうとう楽しいようでもある。なんともむず痒《かゆ》い気持で、うっそりと腰元の顔をながめていると、このとき腰元は、手の甲を口にあてて、ほほほと艶《えん》に笑った。
「どうして、そのように、わたくしの顔ばかり眺めておいでになります」
なんとも言えぬ婀娜《あだ》な上眼づかいで、チラと顎十郎の顔を睨んで、
「……
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング