となく面白くなって、ニヤニヤしていたが、間もなく手持無沙汰《てもちぶさた》になって、となりの部屋のほうへむかって、
「ああ、これ、これ」
と、叫んでみた。
いやまったく! これのれ[#「れ」に傍点]の字も言いおわらぬうちに、それこそ、打てば響くといったふうに、母屋へつづく渡り廊下のほうに軽い足音が聞え、瓦灯口《がとうぐち》の襖がしずかに引きあけられて、閾《しきい》ぎわに、十七八の、眼のさめるような美しい腰元がしとやかに手をつかえた。
さすがの顎十郎も、いささか毒気をぬかれたかたちで、
「うへえ、こいつア凄えぞ」
と、口のなかで呟きながら、なんとなく頬の筋をゆるめてあらためて仔細に眺めると、いや、これはたしかに美しい。
早咲きの桃の花とでも言いましょうか。頬がポッと淡桃色で、文鳥のような、黒い優しげな眸《め》で、じッとこちらをうかがっている。
得《え》もいわれぬ馥郁《ふくいく》たる匂いが、水脈《みお》をひいてほんのりと座敷の中へ流れこんで来る。
伽羅《きゃら》のように絡《から》みつくようなところもなく、白檀《びゃくだん》のように重くもない。清《すが》々しい、そのくせ、どこかほのぼのとした、なんとも微妙な匂いである。
この家の主人の気質は、手紙の文脈からも、だいたい察しられたが、香木五十八種の中にもないような、こんな珍らしい香を惜しげもなく焚《た》きしめるというなどは、よほどの風流。客を応待する心の深さもしのばれて、なかなか奥床《おくゆか》しいのである。
さて、顎十郎は、そういう馥郁たる匂いを嗅ぎながら、ややしばらくのあいだ、文鳥のような優しい眼と睨めっこをしていた。いや、睨めっこといっては少し違うかも知れない。砕いて言えば、腰元の美しい眼ざしが、顎十郎の呆けた眼玉にしんねりと絡みついて、なかなか放さないのである。そういう工合なもんだから、顎十郎のほうも眼をそらすわけにはゆかない。いきおい、睨めっこのような工合になる。
気まずいようでもあり、また、そうとう楽しいようでもある。なんともむず痒《かゆ》い気持で、うっそりと腰元の顔をながめていると、このとき腰元は、手の甲を口にあてて、ほほほと艶《えん》に笑った。
「どうして、そのように、わたくしの顔ばかり眺めておいでになります」
なんとも言えぬ婀娜《あだ》な上眼づかいで、チラと顎十郎の顔を睨んで、
「……
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