戻って来てニヤニヤ笑いながら、
「おい、ひょろ松、欄間のボヤボヤの光がなくなったろう?」
 振りかえって見ると、なるほど、今まであった光がなくなって、さっきのように暗くなっている。
「お、なくなりました。いったい、これは、どうしたというんです」
 顎十郎は、とほんとした顔で、
「どうも、こうもない。……つまり、これでこの朽穴が、お蛇体の通り道だということがわかったんだ」
「ほほう……。でも、叔父の話では、胴まわり一尺もある大蛇だという話だが、どうしてこんな小さな穴から……」
「そこが、それ、魔性《ましょう》の変幻自在なところ。入ろうと思えば、どんなところからだって入って来るだろう。……とまア、平素なら恍けておくところだが、今はそんな場合じゃない。それに、まごまごしていると、えらいことになる。実はな、ひょろ松」
 いつもにもなく、真顔になって、ひょろ松の耳に口をあて、なにか、ひと言二た言ささやくと、いったいどんなことだったのか、ひょろ松が、
「おッ」
 と、驚異の叫び声をあげた。

   道行《みちゆき》の段《だん》

 その後、蛇体が欄間を伝うことはなかったが、お小夜の物狂いはいっこうにおさまらない。
 日に日に窶《やつ》れて、今はもう見るもはかないばかりになってしまったが、なにしろ、相手は変化玄妙《へんげげんみょう》の魔性。捕物にかけては人にゆずらぬ顎十郎も、まるっきり手も足も出ない。縁先に張りこんだり、漫然と夜伽をしたりするほかどうする才覚もないらしく、いたずらにやきもきと気をもんでいるようすは、見る眼にも笑止《しょうし》なばかりであった。
 それから、四日ばかり後のこと。
 この村の恒例で、甲州術道五宿の『写《うつ》し絵《え》』の名人、小浜太夫《こはまたゆう》の一座がにぎにぎしく乗りこんできた。
 芸人というのではなく、なかば好きからの旦那芸で、花見ごろから田植の始まるころまで、調布、府中、青梅《おうめ》などの村々をまわって歩き、名主の家の広座敷やお寺の本堂などで、説教節《せっきょうぶし》にあわせて、『石童丸《いしどうまる》』『出世景清《しゅっせかげきよ》』『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』『四谷怪談』などの写し絵をうつして見せる。
 この『写し絵』は、そのころ八王子を中心に、久しいあいだ全盛をきわめたものだった。
 桐でつくった頑丈な写箱《フロ》の前面にのぞきからくり[#「のぞきからくり」に傍点]と同じレンズがはまり、カンテラのあかりで、美濃紙を継ぎあわせた、天地三尺、幅三間半ぐらいの幕にうつす。
 横長の、八寸ほどの木の枠に、立ったところ、ころげたところ、起きあがったところと、いろいろな姿態を硝子《ギヤマン》に極彩色で描いた、五枚から八枚までの種板《コマ》を嵌めこみ、幕のうしろにいくつも写箱をならべて交互にこれを使用する。名人になると、ひとりで四つの写箱をつかいわけて、画面の人物をたくみに操り、さながら、生きて動く人間を見るような至極《しごく》な芸を見せたものであった。
 そのころでは、これはこの上もない面白い観物《みもの》。あすは名主さまの家で『写し絵』があるということになると、近郷村一帯、だれも仕事に手がつかない。七八里もあるところから、村じゅう総出で、提灯をつけて夜道を辿ってやってくる。
 さて、いよいよ、当日。
 又右衛門の家では朝から転手古舞《てんてこま》い。
 広座敷に燭台を出したり、楽屋をこしらえたり、座布団や煙草盆。庭には、いっぱいに筵を敷きつめ、足りないところには縁台を出す。
 下男頭の作平が、僕童を追いまわしながら、
「おいおい、ここに筵が足らねえぞ……縁台はこっちじゃあねえだ。むこうだむこうだ」
 などと、汗みずくになってやっている。すこし骨細だが、実直そうないい壮者《わかもの》。
 奥では、接待の麦茶わかし、子供にくばる菓子づつみや強飯《こわめし》やら。
 このほうは、女中頭のお年が一生懸命に采配をふるっている。しめりかえったこの屋敷に一時に春がきたよう。だれもかれも、浮き浮きした笑い声をあげて走りまわる。
 まだ日も暮れぬうちから、晴着をひっぱった老幼男女が、煮〆の重詰や地酒をさげてくりこんでくる。またたく間に、五十畳の広座敷はもちろん、筵敷の上までぎっしりと詰って、身動きもならない有様。気の早いのは、もう重箱をあけて盃のやりとり。早くやってくらっせえ、などとだみ声をあげている。
 顎十郎も誘われて座敷の隅にいる。
 そうこうするうちに、短い秋の日はとっぷりと暮れ、星がキラキラと瞬きだす。
 さア、もう始まるべえ、と、ざわめき立っているうちに、作平や世話役が座敷の灯を消して歩く。
 やがて、正面の幕に写しだされたのが、吉例の『福助』。
 わあッ、というどよめきのうちに、楽屋からは写し絵の口上、声
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