た時も、まだ降っていたそうだな」
「へえ、降っておりました」
「今朝、お前がおれのところへ来たとき、座敷には足跡らしいものもございませんでしたと言ったな……それは、いったいどうしたわけなんだ」
「どうしたわけ、とおっしゃると」
「その土砂降りに屋根から舞いこんだとすると、廊下や絨毯に濡れた足跡ぐらい残っていなけりゃならないはずだ。……それなのに、そんな気配もなかったというのは、どうしたことだと訊いているんだ」
「おッ」
「おッに、ちがいねえ。……それがすなわち、屋根からなんぞ這いこんだのではない証拠」
 ひょろ松は、あっけらかんと顎十郎の顔を眺めていたが、大きな息をひとつつくと、感にたえたというような声で、
「こりゃ、どうも。そこには気がつかなかった。さすがは阿古十郎さん、……なるほど、そう言われてみりゃア、こりゃあ理屈だ」
 髷節へ手をやりながら、うらめしそうな顔で、
「それにしても、あなたもおひとが悪い。そうならそうと、最初《はな》っから言ってくださりゃ、こんなところで炎天干《えんてんぼし》になんぞならなくってすみましたものを」
 顎十郎は、大口をあいて笑いながら、
「たまには虫干をするのもいいと思ってな」
「なんとでもおっしゃい。……そうとわかったら、馬鹿馬鹿しくって、もう一時だってこんなところにいられやしない」
 ブリブリ言いながら、檐へかけた梯子をつたってドンドン庭のほうへおりて行く。
 顎十郎は、ひょろ松のうしろについて、ノソノソと玄関の踏石へおりながら、切妻板《きりづまいた》の[#「おりながら、切妻板《きりづまいた》の」は底本では「おりながら|、切妻《きりづまいた》板の」]むこうの壁の凹所《へこみ》のほうを眺めていたが、なにを見たのか、とつぜん、
「おや」
 と、おしつけたような低い叫び声をあげた。
「おい、ひょろ松、ここに変ったものがある。……あそこを見ろ」
 ひょろ松が、指さされたところを見ると、黒漆塗の札に『春鶯句会《しゅんおうくかい》』と胡粉《ごふん》で書いてあって、その左に、仁科伊吾を筆頭にして、六人の席札がずらりと掛けつらねられてある。
 ここまでは、かくべつ不思議はないが、六枚の席札のうち、誰のしわざか、佐原屋と佐倉屋と和泉屋の名を筆太にグイと胡粉で抹殺してある。
 ひょろ松は、合点《がてん》のゆかぬ顔で、
「これは句会の名札ですが、これ
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