のいい凪だった。測《はか》り知られざるなにかの理由で船を見すてなければならなかったとしても、では、どんな方法で船を去って行ったのか。備えつけの二艘の艀舟《はしけ》は苫屋根《とまやね》の両がわに縛りつけられたままになっている。
それにしても、どういう火急《かきゅう》な事情が起って、こうまで遽《あわた》だしく船から去って行かなければならなかったか? 前後の事情からおすと二十三人が船を去ったのは、鰹船が行きあう四半刻にも足らぬ以前のことだったと思われる。
三崎丸の二十三人がほかの船に乗りうつったと考えられぬこともないが、見とおしのきく海の上、そんなら鰹船のほうではチラとでもその船の帆影を見かけていなければならぬはず。ところで、まるっきりそんなものは見ていなかった。
どういう理由かで、三崎丸の二十三人は伊豆田浦岬の地かた二十五六里の沖あいで煙のように消えてしまった。それとも、乗組みがひとり残らず、とつぜん発狂してじぶんで海へ飛びこんでしまったのか?
――これが、文久二年四月十七日、相模灘に起った遠島御用船、三崎丸の事件。
百万遍《ひゃくまんべん》
深川|千歳町《ちとせちょう》の水戸さまの石置場《いしおきば》から始まって新大橋《しんおおはし》のたもとまで、三丁の川岸っぷちにそって大小十四棟の御船蔵《おふなぐら》が建ちならんでいる。
地つづきに植溜《うえだめ》があって、ちょうどそこへ通りかかったのは北町奉行所の例繰方《れいくりかた》、仙波阿古十郎とお手付、ひょろりの松五郎。
この仙波、顔つきは人なみだが、顎だけはひどく桁はずれ。出来のいい長生糸瓜《ながなりへちま》のように末広がりにポッテリと長くのびている。よって、阿古に濁《にご》りを打って仙波顎十郎と呼ばれる。
見かけは茫乎《ぼうこ》としてつかまえどころがないが、これで相当の奇才。江戸一の捕物の名人などとおだてあげるものもいる。実際のところはそれほどでもあるまい、たぶん評判だけのことであろう。
ひょろ松のほうは、名は体をあらわし、蚊とんぼのようにひょろりと痩せているから、それで、ひょろりの松五郎。洒落《しゃれ》にもならないが、いたって気はいい。これが顎十郎の腰巾着《こしぎんちゃく》。乾児《こぶん》とも、弟子とも、家来ともいうべき関係。
それはともかく事件も今度の三崎丸ほどになると、とても御船奉行《おふなぶぎょう》の手ではおさめようがない。この月は北町奉行の月番なので、なにとぞよろしくお取調べをと取調書《とりしらべがき》をそえて頼んできた。
十七日の朝、鰹船が三崎の番所へ事件の顛末をうったえでると、番所からは取るものも取りあえず用船を出して取調べた上、江戸まで三崎丸を曳船《ひきふね》してきて当時のままのありさまで船蔵におさめてある。
万年橋《まんねんばし》のたもとに御船手組《おふなてぐみ》の組屋敷と船蔵がある。顎十郎とひょろ松は、いまそれを見てきた帰り。
顎十郎の見たところと鰹船の漁師の見たところと、かくべつ変ったことはない。御船手付から北町奉行所へとどいた取調書のほうがむしろ詳《くわ》しいくらい。なんという手掛りもなく、ぼんやりと御船蔵を出てきた。これから両国の『坊主軍鶏《ぼうずしゃも》』へでも行って昼飯にしようというつもり。
植溜から灰会所《はいかいしょ》のかどを曲って新大橋のたもとまで来かかると、なにを思ったか、顎十郎は、急に口をきって、
「それはそうと、おれは甲府から出てきたばかりの山猿《やまざる》で、船送りなんてえものを見たことがないが、船送りというのは、いったいどんなことをするものだ」
「べつに変ったこともありませんが、たいてい朝の六ツか七ツ半ごろ、囚人を伝馬町《てんまちょう》の牢からひきだして駕籠に乗せ、南と北の与力と同心がおのおの二人ずつ八人がつきそって御浜《おはま》か永代橋《えいたいばし》、さもなければ蠣店《かきだな》か新堀《しんぼり》、そのどこかの河岸まで持って行きますと、御船手からさしまわした送り船がもうそこへきて待っている。与力と御船手が立ちあいの上で、送り帳と人間を照しあわせて間違いがないとなると、艀舟《はしけ》に乗せて品川沖の遠島船へまで送りとどける。……艀舟へ乗せるわずかの暇に見おくりの親子兄弟と名ごりを惜しませるんですが、これがまたたいへんでしてね、流されるほうも送るほうも泣きの涙。眼もあてられない愁嘆場《しゅうたんば》で、送りの同心もつい貰い泣きをすることがあるそうです。……まあ、そのうちに竹法螺《たけぼら》が鳴って囚人は川岸から艀舟へ追いこまれる。……だいたいこれだけのものですが、中には隙を見て海に飛びこもうとする奴もあれば、同心や船頭を斬りころして船を盗んで呂宋《ルスン》まで押しわたろうなんて、えらいことをたくらむ奴もある。八丈島《はっちょう》、三宅島《みやけ》まではわずか四五日の船路《ふなじ》ですが、物騒でなかなか油断が出来ない」
「なるほど。……それで南と北の与力同心は品川沖の親船までおくって行くのか」
「いいえ、そうじゃありません。御浜なり永代橋なりで艀舟へ乗せると、奉行所の手をはなれて御船手役人の手に移るンです」
「よしよし、よくわかった。だいぶ話が面白くなってきたようだ。……まあ、軍鶏でも突つきながら話すことにしよう」
両国広小路の『坊主軍鶏』。ほどのいい小座敷をたのんで軍鶏をあつらえる。
顎十郎は、盃をとりあげてのんびりと口に含みながら、
「なあ、ひょろ松、十五日に島送りになった七人の中に、えらい盗人がいたそうだな」
「へえ、伏鐘《ふせがね》の重三郎といいましてね、上総姉崎《かずさあねがさき》の漁師《りょうし》の伜で、十七のとき、中山の法華経寺へ押入り、和尚をおどしつけて八百両の金をゆすり取ったのを手はじめに、嘉永四年の六月には佐竹の御金蔵《ごきんぞう》をやぶって六千両。安政元年には長崎会所《ながさきかいしょ》から送られた運上金《うんじょうきん》、馬つきできたやつを十人の送り同心もろとも箱根の宮城野ですりかえて一万二千両。……このへんは序《じょ》の口《くち》で、まだまだ後があるンですが、そういうふうに息をひそめていて二年目ぐらいずつにどえらい大きな仕事をする。乾児《こぶん》にまたいっぷう変ったやつがいて、中でもおもだったのは毛抜《けぬき》の音《おと》、阿弥陀《あみだ》の六蔵、駿河《するが》の為《ため》の三人。一日に四十里《しじゅうり》歩くとか、毛抜で海老錠《えびじょう》をはずすとか不思議な芸を持ったやつばかり。手下のかずも五十人はくだるまいというンですが、どうして伏鐘というかというと、まだ若いころ芝の青松寺《せいしょうじ》の鐘楼《しょうろう》の竜頭《りゅうず》がこわれて鐘が落ちたことがある。そのとき重三郎はつれられて行ったやつに、おれは伏鐘の中に入って、お前がポンと手をうつうちに抜けだして見せる。見事ぬけだしたらおれに拾両よこすかと言った。そんなことは出来るわけのもンじゃないが、見事やったらいかにも拾両だそう、で、重三郎を伏鐘の中へ入れ、ポンと手をうつと、そのとたん、重三郎はそいつのうしろに立っていて、おれは、ここにいるよと言ってニヤリと笑ったという、そういう不思議なやつなんです」
「入ったと見せて入らなかっただけのことで、格別びっくりするような技《わざ》じゃねえが、それほどのやつがどういうことでつかまったんだ」
「この正月の三日に黒田豊前守《くろだぶぜんのかみ》の下屋敷《しもやしき》の金蔵を破るつもりで、お廃止になっている青山上水の大伏樋《おおふせど》へ麻布六本木あたりから入りこみ、地面の下を通って芝新堀まで行き、金蔵に近い庭さきへ出たところを見まわりの金蔵番に見つかってつかまってしまったんです」
「それで、だいたいようすがわかった。……すこし話はちがうが、十一人の水主《かこ》船頭の中で、ついこのころ世帯を持ったばかりというような奴はいないか」
ひょろ松はうなずいて、
「ええ、一人おります。楫取の弥之助というのが、ついこの春、佃島《つくだじま》の船宿のお静という末むすめを女房にもらったンですが、これが三年越し思いあったというえらい恋仲。恋女房に恋亭主、ちょっとまともには受けきれねえような睦《むつま》じい仲なんで。……お静の父親の船宿は、石川島の人足寄場《にんそくよせば》と小さな堀をへだてて塀ずりあわせになっているんで石川島へ行った帰りなどによく寝ころがりに行くんで、それでこういう話を知っているんです……」
「おお、そうか。それはそうと、船頭宿では今ごろはさぞたいへんな騒ぎをしているこったろう。お悔みというのも妙なもんだが、どんな騒ぎになっているか、ひとつこれから出かけてみるか」
「金兵衛の宿は千歳町の川岸ッぷちだからつい目と鼻のさき。どうせもういちど御船蔵へもどらなくちゃアならねえのだからちょうど道筋です」
『坊主軍鶏』を出て大川端にそって行き、一ノ橋をわたると、すぐその橋のたもと。
船頭宿の常式《じょうしき》どおり、帆綱や漏水桶《あかおけ》や油灯などが乱雑につみあげられた広い土間からすぐ二十畳ばかりの框座敷になり、二カ所に大きな囲炉裏《いろり》が切ってある。
門口からさしのぞくと、奥の壁ぎわに香華《こうげ》を飾り、十一の白木の位牌をずらりとならべ、船頭の女房やら娘やらが眼をまっ赤に泣きはらしながら百万遍を唱えている。
ヒクヒクと息をひきながら啜り泣いているのもあれば、髪をふりみだして涙びたしになっているのもある。いずれも眼もあてられないようすをしているうちに、たった一人だけ、しんと落着きはらっている女がいる。
ついこのごろ眉を落したばかりと見え、どこか稚顔《おさながお》の残ったういういしい女房ぶり。
ときどき眼へ手を持ってゆくが、それもほんの科《しぐさ》だけ。悲しそうな顔はしているが無理につくったようなところがあって、どうもそのままには受けとりにくい。
顎十郎は、そっとひょろ松の袂をひいて、
「あそこの赭熊《しゃぐま》の女のとなりで大数珠《おおじゅず》をくっているのは、あれは、いったい誰の女房だ」
「あれが、さっきお話した弥之助の女房です」
顎十郎はなにを考えたか、ツイと金兵衛の門口からはなれると一ノ橋をわたって両国のほうへ引っかえし、相生町《あいおいちょう》の『はなや』という川魚《かわうお》料理。座敷へ通って紙と筆を借り、なにかサラサラと書きつけると封をして、
「こいつを、つかい屋にお静のところへ持たせてやってくれ。……それから、お前には頼みがあるんだが……」
「どんなことでございます」
「ちょっと思いついたことがあるから、御船手の組屋敷と伝馬町の牢屋敷へ行って、十九日の朝、島送りの七人をどこの河岸から艀舟につんだか、しっかり念を押して来てくれ。くわしい話はあとでゆっくりする」
海生霊
顎十郎は、遠慮のない口調で、
「……じゃア、サックリしたところをおたずねしますがね、お静さん、あなたのご亭主の弥之助さんは、いったいどこに隠れているんです」
お静は、眼を見はって、
「なにを途方もないことを。……弥之助は、十九日の朝がた、相模灘でゆくえ知れずになってしまいました。つまらない冗談はよしてくださいまし」
「三年も惚れあってようやく一緒になった大切な亭主。かばいだてするのは無理もないところだが、それではかえってためにならない。あなたがいくら隠したってこっちにゃアちゃんとわかっている。……ねえ、お静さん、あなたは弥之助から無事に生きているから心配するなという手紙を受けとったでしょう」
お静は、えッと息をひいたが、すぐさり気ないようすになって、
「なにかと思ったらくだらない。聞いていれば、さっきから妙に気障《きざ》な話ばかり。……貰えるものなら冥土《めいど》からでも、便りをもらいたいぐらいに思っていますが、死んだひとが手紙を書こうわけもなし……」
顎十郎は笑い出して、
「冥土からとどくわけのない手紙を見て、いそいそとここへやって来なすったのはどういうわけ
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