おふなぶぎょう》の手ではおさめようがない。この月は北町奉行の月番なので、なにとぞよろしくお取調べをと取調書《とりしらべがき》をそえて頼んできた。
十七日の朝、鰹船が三崎の番所へ事件の顛末をうったえでると、番所からは取るものも取りあえず用船を出して取調べた上、江戸まで三崎丸を曳船《ひきふね》してきて当時のままのありさまで船蔵におさめてある。
万年橋《まんねんばし》のたもとに御船手組《おふなてぐみ》の組屋敷と船蔵がある。顎十郎とひょろ松は、いまそれを見てきた帰り。
顎十郎の見たところと鰹船の漁師の見たところと、かくべつ変ったことはない。御船手付から北町奉行所へとどいた取調書のほうがむしろ詳《くわ》しいくらい。なんという手掛りもなく、ぼんやりと御船蔵を出てきた。これから両国の『坊主軍鶏《ぼうずしゃも》』へでも行って昼飯にしようというつもり。
植溜から灰会所《はいかいしょ》のかどを曲って新大橋のたもとまで来かかると、なにを思ったか、顎十郎は、急に口をきって、
「それはそうと、おれは甲府から出てきたばかりの山猿《やまざる》で、船送りなんてえものを見たことがないが、船送りというのは、いったいどんなことをするものだ」
「べつに変ったこともありませんが、たいてい朝の六ツか七ツ半ごろ、囚人を伝馬町《てんまちょう》の牢からひきだして駕籠に乗せ、南と北の与力と同心がおのおの二人ずつ八人がつきそって御浜《おはま》か永代橋《えいたいばし》、さもなければ蠣店《かきだな》か新堀《しんぼり》、そのどこかの河岸まで持って行きますと、御船手からさしまわした送り船がもうそこへきて待っている。与力と御船手が立ちあいの上で、送り帳と人間を照しあわせて間違いがないとなると、艀舟《はしけ》に乗せて品川沖の遠島船へまで送りとどける。……艀舟へ乗せるわずかの暇に見おくりの親子兄弟と名ごりを惜しませるんですが、これがまたたいへんでしてね、流されるほうも送るほうも泣きの涙。眼もあてられない愁嘆場《しゅうたんば》で、送りの同心もつい貰い泣きをすることがあるそうです。……まあ、そのうちに竹法螺《たけぼら》が鳴って囚人は川岸から艀舟へ追いこまれる。……だいたいこれだけのものですが、中には隙を見て海に飛びこもうとする奴もあれば、同心や船頭を斬りころして船を盗んで呂宋《ルスン》まで押しわたろうなんて、えらいことをたくらむ奴もある。八丈島《はっちょう》、三宅島《みやけ》まではわずか四五日の船路《ふなじ》ですが、物騒でなかなか油断が出来ない」
「なるほど。……それで南と北の与力同心は品川沖の親船までおくって行くのか」
「いいえ、そうじゃありません。御浜なり永代橋なりで艀舟へ乗せると、奉行所の手をはなれて御船手役人の手に移るンです」
「よしよし、よくわかった。だいぶ話が面白くなってきたようだ。……まあ、軍鶏でも突つきながら話すことにしよう」
両国広小路の『坊主軍鶏』。ほどのいい小座敷をたのんで軍鶏をあつらえる。
顎十郎は、盃をとりあげてのんびりと口に含みながら、
「なあ、ひょろ松、十五日に島送りになった七人の中に、えらい盗人がいたそうだな」
「へえ、伏鐘《ふせがね》の重三郎といいましてね、上総姉崎《かずさあねがさき》の漁師《りょうし》の伜で、十七のとき、中山の法華経寺へ押入り、和尚をおどしつけて八百両の金をゆすり取ったのを手はじめに、嘉永四年の六月には佐竹の御金蔵《ごきんぞう》をやぶって六千両。安政元年には長崎会所《ながさきかいしょ》から送られた運上金《うんじょうきん》、馬つきできたやつを十人の送り同心もろとも箱根の宮城野ですりかえて一万二千両。……このへんは序《じょ》の口《くち》で、まだまだ後があるンですが、そういうふうに息をひそめていて二年目ぐらいずつにどえらい大きな仕事をする。乾児《こぶん》にまたいっぷう変ったやつがいて、中でもおもだったのは毛抜《けぬき》の音《おと》、阿弥陀《あみだ》の六蔵、駿河《するが》の為《ため》の三人。一日に四十里《しじゅうり》歩くとか、毛抜で海老錠《えびじょう》をはずすとか不思議な芸を持ったやつばかり。手下のかずも五十人はくだるまいというンですが、どうして伏鐘というかというと、まだ若いころ芝の青松寺《せいしょうじ》の鐘楼《しょうろう》の竜頭《りゅうず》がこわれて鐘が落ちたことがある。そのとき重三郎はつれられて行ったやつに、おれは伏鐘の中に入って、お前がポンと手をうつうちに抜けだして見せる。見事ぬけだしたらおれに拾両よこすかと言った。そんなことは出来るわけのもンじゃないが、見事やったらいかにも拾両だそう、で、重三郎を伏鐘の中へ入れ、ポンと手をうつと、そのとたん、重三郎はそいつのうしろに立っていて、おれは、ここにいるよと言ってニヤリと笑ったという、そういう
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