。……見あらわされたうえはいさぎよく白状するが、なにもこれは迷信などを信じてやったわけではない。おまえも知ってのとおり、花世は甲子《きのえね》の年の生れ、大黒様の申《もう》し子《ご》のようなやつだから、それで、こうして、いくぶんの義理をたてておる。これだけは見のがしてくれ」
 顎十郎は、聞くでもなく聞かぬでもないような様子で版木をひねくりまわしていたが、なにを認めたものか、ほう、と声をあげ、
「こりゃア妙だ。……叔父上、この尊像はすこし変っていますぜ。……いままでの大黒尊像は、俵を踏んまえて、その下に鼠が二匹いる。……だれでも知っている通り、それだけのものだが、これ、ごらんなさい、この尊像には、こんなわけのわからぬものがついている」
 見ると、なるほど、尊像の空白に、お灸のあとのような、妙なものがついている。
 それは、こんなふうなものだった。
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   弥太堀《やたぼり》

 小網町《こあみちょう》の船宿《ふなやど》でわかれたきり、その後、三日になるが杳《よう》として顎十郎の消息が知れない。
 弓町の住居にもかえらないし、庄兵衛の屋敷にもよりつかない。また、れいのごとく、中間部屋にでもとぐろを巻いているのかと思って、脇坂や上杉《うえすぎ》の部屋をのぞきこんで見たが、姿が見えぬ。
 そうこうしているうちに、南番所のほうでは、いよいよ追いこみにかかったらしく、弥太堀《やたぼり》の近くにおびただしい人数を張りこませ、目ざましいまでに色めきわたっている様子である。
 ひょろ松は気がきでない。手にものもつかぬようにじれ切っているところへ、ちょうど四日目の朝になって、顎十郎が泰平な顔でブラリとやって来た。
 顎十郎の声をききつけるより早く、ひょろ松は奥から泳ぎだし、喰ってかかるような調子で、
「阿古十郎さん、ひどく気をもませるじゃありませんか。……いったい、今日までどこに雲がくれしていたんです」
 顎十郎は、懐手をしてのっそりと突っ立ったまま、
「じつは、長崎のほうに友達ができてな、ちょっとそこまで行って来た」
 ひょろ松は、ムッとして、
「冗談なんぞをいってる場合じゃありません。……こっちは、たいへんなことになってるんです。しっかりしてもらわなくっちゃ困ります。……それで、なにか見当がつきましたか」
 顎十郎はケロリとして、
「引きうけたおぼえはないが、見当だけはつけてやった」
 ひょろ松が、相好《そうごう》をくずしてあわて出すのを、顎十郎は手でおさえ、
「それで、南じゃ、このごろ、どんなことをやっている」
 ひょろ松は、藤波とせんぶりの千太が、弥太堀に人数を張りこまして大わらわになっていることを話すと、顎十郎は、ふんと、鼻を鳴らして、
「こりゃア、ちと物騒なことになってきた。まごまごするとお蔵に火がつく。……南でやろうが、北でやろうが、おれにしちゃ、どうでもいいようなもんだが、なることなら、やはり叔父貴に手柄をさせてやりたい。どんなことになっているのか、ひとつ様子を見にゆこうか」
「へえ、お伴します」
 急ぐのかと思えば、そうでもない。泰然たる面もちでひょろ松とならんで歩きながら、
「お前との約束があったが、じつは、すこし、からかってやるつもりで、あの足で金助町へ出かけて行ったんだ」
「えッ、じゃア、底を割ったんですか」
「と、思ったんだが、そうはしなかった。……そのかわりに、ふしぎなものを手に入れて来た」
 といって、懐から一枚の刷物《すりもの》を出し、それをひょろ松に渡しながら、
「ひょろ松、お前、これをなんだと思う」
 ひょろ松は、受けとって眺めていたが、つまらなそうな顔で、
「こりゃア、このせつ流行《はやり》の縁起《えんぎ》まわしの大黒絵じゃありませんか。……これが、いってえ、どうだというんです」
「そうか、お前にはそうとしか見えないか」
 ひょろ松はあらためて眼をすえて眺めていたが、そのうちに頓狂な声をあげ、
「なるほど、こりゃア、ちと変っている。……この碁石のぶっちげえのようなものは、いったい、なんなのでしょう。……まさか、五目ならべの課題でもあるめえが」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「それだけでもわかりゃア上の部だ。……それはそうと、妙なのはそれだけか。眼のくり玉をすえて、もう一度、よく見ろ」
 ひょろ松は、ためつすがめつ大黒絵を眺めていたが、
「あります、あります。……なるほど、妙なところがある。……大黒様の左肩に、矢羽根のようなものが微かに見えるが、矢をせおった大黒様とは珍らしい」
「ひょろ松、縁起まわしの刷物には、鼠がなん匹いたっけな」
「きまってるじゃありませんか、二匹です」
「この大黒様にはなん匹いる」
「なるほど、こりゃアけぶだ。……俵のうしろから鼻のさきを出しているのがある。……ひい、ふう、みい、よ……みんなで、四匹おります」
 ひょろ松は、眼をかがやかして、
「こりゃア、どういう洒落なんです。これが、今度のいきさつに、なにかひっかかりがありますんでしょうか」
 聞えたのか聞えぬのか、顎十郎、なんの返事もしない。長い顎をふって、あちこちと河岸っぷちの景色を眺めながら、ぶらりぶらりと歩いてゆく。
 蠣殻町《かきがらちょう》の浅野の屋敷のまえを通り、川っぷちをつたいながら弥太堀の近くまで行くと、蔵屋敷《くらやしき》のならびの大黒堂の横手に、五十ばかりの汚い布子を着た雪駄《せった》直しが、薄い秋の日だまりのなかでせっせと雪駄をつくろっている。
 ひょろ松は、それに眼をつけると、肘《ひじ》でそっと顎十郎をついて、
「阿古十郎さん、あれが藤波ですぜ」
 と、ささやく。
 顎十郎は、ほほう、とうなずきながら、さりげない様子でお堂の右ひだりを眺めると、なるほど、いる、いる。
 花売りにかったいぼう、手相見もいれば、飴屋もいる。そうかと思うと、子供づれで、参詣の善男子《ぜんなんし》に化けこんでいるのもある。人数にしておよそ三十人ばかり、参詣の人波にまぎれながら、四方からヒシヒシとお堂をとりつめている。
 顎十郎は、ああん、と口をあいて、大がかりな捕物を見物していたが、やがて、ひょろ松のほうへ長い顎をふりむけると、
「おい、ひょろ松、このぶんじゃ、どうやら、こっちの勝だぜ」
 と、のんびりと言って、
「これだけ見りゃもう充分だ。……じゃ、そろそろひっかえすとするか」

   子《ね》の日

 弥太堀の大黒堂をあとにすると、顎十郎は、油町《あぶらちょう》から右へ折れ、ずんずん薬研堀《やげんぼり》のほうへ歩いてゆく。
 ひょろ松は、気にして、
「阿古十郎さん、これじゃア、道がちがやアしませんか」
 といったが、てんで耳もかさず、矢《や》ノ倉《くら》から毛利《もうり》の屋敷のほうへ曲り、横丁をまわりくねりしたすえ、浜町《はまちょう》二丁目の河岸っぷちに近いところへ出た。
 見ると、大黒堂と堀ひとつへだてた向い岸。橋ひとつ渡ればすむところを、小半刻も大まわりをしてやって来たわけである。
 ひょろ松はあっけにとられて、
「こりゃア、おどろいた。……ここは、弥太堀じゃありませんか。……昼日なか、狐につままれたわけでもありますめえね。……いってえ、どうしたというわけなんです」
 顎十郎は、依然として無言のまま、先に立って弥太堀から横丁へ折れこみ、大きな料理屋のすじむかいの水茶屋《みずぢゃや》[#ルビの「みずぢゃや」は底本では「みずじゃや」]の中へ入ってゆく。
 ひょろ松はしょうことなしにそのあとについてゆくと、顎十郎は、ずっと奥まった葭簀《よしず》のかげの床几にかけていて、ひょろ松がそのそばへひきならんで坐るよりはやく、囁くような声で、
「このへんに番所があるか……駕籠屋があるか」
 いつもの顎十郎と様子がちがう。
 ひょろ松は、けおされたようになって、思わずこれも小声になり、
「あの火の見の下が辻番で、駕籠屋も、つい近所にございます」
 顎十郎は鼻孔《はな》をほじりながら、うっそりと小屋のうちそとを見まわしてから、
「……なア、ひょろ松、御府内の悪者《わる》は、その後まだ鳴りをひそめているだろう、それにちがいなかろう」
「へえ、その通りでございます」
「お前に、まだ、そのわけがわからねえか」
「………」
「それは、鳴りをひそめているんじゃない、江戸にいないのだ」
「えッ」
「それだけの人数の悪者《わる》が、いったい、なんのためにみな江戸を離れていったのだろう。……なにか思いあたることがないか」
「どうも……」
「こないだ、大川の屋根舟で、間もなく途方《とほう》もないことがもちあがるといったのは嘘じゃない。やはり、おれの見こみどおりだった。……みぜんにふせぐことが出来れば、それに越したことはないが、さもなければ、たいへんな幕府の損害になる……」
 いよいよ、ささやくような声になって、
「お前も、多少は聞いているだろうが、こんど幕府が外国から買い入れた、例の咸臨丸、これは、和蘭陀《おらんだ》のかんてるく[#「かんてるく」に傍点]というところで建造された軍艦で、木造蒸気内車《もくぞうじょうきうちぐるま》、砲十二|門《もん》、馬力《ばりき》百、二百十|噸《とん》というすばらしいやつだ。それが、はるばる廻航《かいこう》されてきて、来月の中ごろ、長崎で受けとることになっている。この代価が十万|弗《どる》。日本の金にして二十五万両。……この金が馬の背につまれて長崎までくだる。……どうだ、ひょろ松」
 ひょろ松は、あッ、とのけぞって、
「それだッ……すると、江戸の悪者どもは……」
 まっ蒼になって、ブルブル慄えていたが、急に狂気したように、両手で顎十郎の腕を鷲づかみにすると、
「そ、それで……その金は?」
「きのう、江戸を出たはずだ」
「げッ、……それじゃア、もう間にあいませんか」
「なんともいえないが、やるだけやってみるより、しょうがあるまい。……ところで、ひょろ松、ちょっとむかいの料理屋へ行って、きょう三十人ばかりで楊弓結改《ようきゅうけっかい》の会をやりたいのだが、席があるかときいて来い」
 ひょろ松は無我夢中のていで水茶屋から出ていったが、間もなくもどってきて、
「きょうは、一月寺《ぼろんじ》の一節切《ひとよぎり》の会があるので、夕方まで売切れになっているということでございます」
 顎十郎はうなずいて、
「うむ、そうか、それでいいのだ」
 ひょろ松は、席にもいたたまれぬように焦だって、
「それはそうと、阿古十郎さん、こんな水茶屋なんぞでのっそりしていていいのですか。……あっしはもう……」
 立ちかかるのを、顎十郎は腕をとってひきとめ、
「まア、あわてるな。……すこし、落着いてむかいの料理屋の看板を見ろ。なんと書いてある」
 ひょろ松は、葭簀のあいだから料理屋のほうをすかしながら、口のなかで、
「大黒屋……、だ、い、こ、く、や……」
 と呟いていたが、急に横手をうって、
「あッ、わかりましたッ。……すると、あの縁起まわしの大黒絵の刷物は、絵ときで場所を知らせる廻状《かいじょう》のようなものだったんで……」
「いかにもその通り……それで、きょうは、いったい、何日で、そして、なんの日だ」
「きょうは、九月四日……」
 指を折って、
「朔日《ついたち》が酉《とり》でしたから、……酉、戌《いぬ》、亥《い》……、あっ、子《ね》の四日……。それで、鼠が四匹か……。どっちみち、あの碁石をならべたようなのが、手がかりのもとになったのでしょうが、いったい、あれは、なんでありました」
 顎十郎は、顎を撫でながら、
「おれも、あれには一ぷくふいた。……なんの符牒《ふちょう》なのかいっこうにわからない。……すこし嫌気がさして、ころがっていた船宿を出て、小田原町の通りをあてもなくブラブラ歩いていると、すぐそばの露地の奥で、尺八《しゃくはち》の師匠が、れ、れ、つ、ろー、ろ、とやっている。……なんの気もなく、二三町ゆきすぎたとこ
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