ッ……すると、江戸の悪者どもは……」
 まっ蒼になって、ブルブル慄えていたが、急に狂気したように、両手で顎十郎の腕を鷲づかみにすると、
「そ、それで……その金は?」
「きのう、江戸を出たはずだ」
「げッ、……それじゃア、もう間にあいませんか」
「なんともいえないが、やるだけやってみるより、しょうがあるまい。……ところで、ひょろ松、ちょっとむかいの料理屋へ行って、きょう三十人ばかりで楊弓結改《ようきゅうけっかい》の会をやりたいのだが、席があるかときいて来い」
 ひょろ松は無我夢中のていで水茶屋から出ていったが、間もなくもどってきて、
「きょうは、一月寺《ぼろんじ》の一節切《ひとよぎり》の会があるので、夕方まで売切れになっているということでございます」
 顎十郎はうなずいて、
「うむ、そうか、それでいいのだ」
 ひょろ松は、席にもいたたまれぬように焦だって、
「それはそうと、阿古十郎さん、こんな水茶屋なんぞでのっそりしていていいのですか。……あっしはもう……」
 立ちかかるのを、顎十郎は腕をとってひきとめ、
「まア、あわてるな。……すこし、落着いてむかいの料理屋の看板を見ろ。なんと書いてある」
 ひょろ松は、葭簀のあいだから料理屋のほうをすかしながら、口のなかで、
「大黒屋……、だ、い、こ、く、や……」
 と呟いていたが、急に横手をうって、
「あッ、わかりましたッ。……すると、あの縁起まわしの大黒絵の刷物は、絵ときで場所を知らせる廻状《かいじょう》のようなものだったんで……」
「いかにもその通り……それで、きょうは、いったい、何日で、そして、なんの日だ」
「きょうは、九月四日……」
 指を折って、
「朔日《ついたち》が酉《とり》でしたから、……酉、戌《いぬ》、亥《い》……、あっ、子《ね》の四日……。それで、鼠が四匹か……。どっちみち、あの碁石をならべたようなのが、手がかりのもとになったのでしょうが、いったい、あれは、なんでありました」
 顎十郎は、顎を撫でながら、
「おれも、あれには一ぷくふいた。……なんの符牒《ふちょう》なのかいっこうにわからない。……すこし嫌気がさして、ころがっていた船宿を出て、小田原町の通りをあてもなくブラブラ歩いていると、すぐそばの露地の奥で、尺八《しゃくはち》の師匠が、れ、れ、つ、ろー、ろ、とやっている。……なんの気もなく、二三町ゆきすぎたとこ
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