んとやらじゃないんだから、つまらぬ庇いだては、まずまず御無用」
 青地は、思わず膝をのりだして、
「そ、それは、事実で……」
「事実もなにも、酒井の部屋には、これが嘘でないという証人が十人、二十人とおります。……もっとも、石田清右衛門のほうは、自分が駕籠をひっくり返したために、こんなえらい騒ぎになっているなんてことは知らない」
 顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、うそぶいて、
「……ところで、手前には、だれがお氷の箱をあなたの家へ投げこんだか、だいたいあたりがついている。……が、それは、こっちの話。……ところで、氷の箱ですが、これは盗まれたのではなくて駕籠からころげだし、あのへんの草むらの中へ落ちていた。それを誰かが、なにか金目なものと思いこみ、拾ってかかえて来たが、さて、あけて見たところが、ただの空箱。……なんだ、つまらねえ、で、行きずりに垣根越しにあなたの家のなかへ投げこんだ。……掏摸《すり》などがよくやる手で、盗んだ財布から金だけ抜きとり、財布のほうはところかまわずそのへんの縁の下へ投げこんで行く。そんな例はザラにあるんです。……運わるく投げこまれたのがあなたの家で、それが、あなたの不幸、と言ったようなわけ、……いかがですか、たしかにおわかりになりましたな」

 それから一刻ほど後、顎十郎はブラリと加賀の大部屋へあらわれる。為と寅を空地へ呼びだして、
「……寅に為……よくやったな」
 二人は、あっけに取られて、
「よくやった……だしぬけに、なんです」
 顎十郎は、へへら笑って、
「駕籠がひっくり返ったはずみに、氷の箱が駕籠から飛びだして、土手下の草の中へころがりこんだ。……青地のせがれが大熱で、たいへんに氷をほしがっていることを知っている。こいつぁ、いい、で、互いに眼顔で知らせ、わッ、あの侍、お氷の箱をかかえて逃げて行きやがる、と騒いだな。氷見役人などはみな頓痴気《とんちき》だから、そりゃ、大変、で追いかける。……どのみち、ふたりに用はない。西の丸そとをさんざ駈けまわらせておいて、ふたりのうちのひとりが氷の箱をかかえ、早駈けして青地の家へ投げこむ……」
 キョロリと二人の顔を見て、
「青地が馬鹿正直で、箱をかかえて自身番へ訴えでたには驚いたろう」
 為は、息をのんで、
「ど、どうしてそれを……」
「見そこなっちゃいけない、おれの耳はお前たちのとはチト出来がちがうのだ。……氷盗っとが箱をかかえたのを見とどける暇があるのに、衣類のなりがわからないというはずはない。わざと曖昧な申立てをしてるところに、なにかいわくがある。有馬の湯で話をきいたときから、ことによったら、お前たちの仕業だとチャンと睨んでいたんだ」
「先生も、おひとが悪い」
「ひとが悪いのは、そっちのほうだ。……お前たちがチョイチョイ青地の家へくることはおれは知っている。それを、まるで他人のようなことを言うから、これは、こう、と、見こみをつけた」
 為と寅はふるえ出して、
「こりゃあ、えれいことになった。……それで、あっしたちのほうはどうなりましょう」
「どうなるものか。……氷は溶けてあとかたなし。水から出て水にかえる。……まず、なにごともなかったことにすればいい」



底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
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