ばらしきぶ》のかどから四番原をななめに突っきって三番原。大汗になって一ツ橋づめまで飛んでくると、橋のたもとへ駕籠をおろして寅と為と部屋頭の三人が待っている。
 顎十郎は大息をつきながら、
「ど、どうだった……ここで何分ぐらい待った」
 部屋頭は首を振って、
「とても、いけません。……ここへ駕籠をおろしたのはちょうど三字と四十ミニュート。……いまがちょうど三字五十五ミニュート。あなたは十五ミニュートも遅れています」
 顎十郎は汗を拭いながら、
「口から臓腑《ぞうふ》が飛びだすほど駈けてきたんだが、十五ミニュートとは、だいぶちがう。……だが、念には念を入れ、もうひとかえりやって見よう」
 駕龍を吊って加賀の屋敷までひきかえし、またはじめからやり直す。
 なんとも顎の長い異様なのが、ひと刻もおかずにまたぞろ本郷の通りを大駈けに駈けて行くもんだから、町並では、みな店さきへ飛びだして、ワイワイいいながら見おくっている。
 今度は十分早めに追いかけたが、それでも、やはりいけない。顎十郎が駈けつける五分前に、駕籠は、ちゃんと橋詰へとどいている。

   後口

 小伝馬町《こてんまちょう》の牢屋敷。
 三千五百坪の地内に揚座敷《あがりざしき》、揚屋《あがりや》、大牢《おおろう》、二間半《にけんはん》(無宿牢)、百姓牢、女牢、と棟《むね》をわける。
 お目見《めみえ》以上、五百石以下の未決囚は揚座敷へ。お目見以下、御家人、僧侶、山伏《やまぶし》、医者、浪人者は、ひと格さがった揚屋へ入れられる。
 揚座敷のほうは、いわゆる独房で、縁付《へりつき》畳を敷き、日光膳《にっこうぜん》、椀、給仕盆などが備えつけてあり、ほかに、湯殿《ゆどの》と雪隠《せっちん》がついている。
 揚屋のほうは、大牢や無宿牢のような雑居房ではなく、これも独房だが格式はぐっとさがって畳は坊主畳になり、揚座敷のように食事に給仕人がつかないから、したがって給仕盆などの備えつけはなく、雪隠も湯殿も入混《いれご》みになる。
 四畳に足りない六・七という妙な寸法で、いっぽうは高窓。いっぽうは牢格子。片側廊下で、中格子のわきに鍵役、改役当番の控所がある。
 その一間。
 この二日のうちに、いよいよもって憔悴《しょうすい》した源右衛門とむかいあって坐っているのが、仙波阿古十郎。
 かくべつ陽気にかまえるつもりはないのだろうが、顔のこしらえがなんとなくのんびりと出来ているので、こういう陰気な場所がらにはいかにも不釣りあい。
 ちょうど話がとぎれたところと見え、青地は膝に手をついてうつむき、顎十郎のほうは、例によって長い顎の先をつまみながら、トホンと天井を見あげていたが、鼻の先にとまりかけた蠅を手ではらうといつもの不得要領な調子で、
「いやどうも、それは、それは……」
 と、わからぬことを言っておいて、あらためて青地の顔を眺め、
「とかく、番所の人間というものは、わかりきったことをしちくどく念を入れるが、これが、つまり役儀がら。……馬鹿なことをうかがうようですが、加賀の屋敷を出て、どういう道すじで一ツ橋へおいでなすった」
「どの道と申して、道はひとすじ。……壱岐殿坂から水道橋。大屋敷を左に見て、榊原式部のかどから四番原、三番原。……それから一ツ橋……」
「まず、そのへんが道順ですな。……あなたは、駕籠を一ツ橋門内で待伏せなすっていらしったそうだが、どのへんで氷の駕龍を追いぬかれましたか」
 青地はチラと眼をあげて、
「はて、どのへん、と申して……」
「お忘れですか」
「いや、思い出しました。……駕籠を追いぬいたのは、ちょうど、大屋敷のあたり……」
「……あたり、と言いますと……」
「……ちょうど、大屋敷の角で……」
「ははあ、そこで追いぬかれた。……なぜ、そこでおやりにならなかった」
「……なにか御祝儀でもありましたろう、おりあしく、榊原のお徒士《かち》衆が油単《ゆたん》をかけた釣台《つりだい》をかついで門から出てまいりまして……それで……」
「それは、悪い都合。……それにしても、一ツ橋の御門内で待伏せられたのはどういうわけですか。……いったいの空地で、あの三番原なら、門内で待伏せするよりやりやすかったのではなかったかと思いますが」
「いったんは、手前も、そうかんがえましたが、逃げるには便利なようでも、なんといっても四方みとおしの原」
 しおっ、と首をたれて、
「……じつは、その日は、二日ほど前から、水のほかなにものも食しておらんような始末。……この弱あしで原のほうへ逃げましたら、すぐ追いつかれる。……ご門内のほうならば、屋敷も建てこんでいることでござるから、そのあいだを縫い歩いたら、なんとか逃げおわせるかと……」
 顎十郎は、ほう、とうなずいて、
「二日も、なにもあがらんで、本郷から一ツ橋まで
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