だいぶ迫っては行きましたが、駕籠が一ツ橋門内に入りかかるときには、ちょうど四番原の入り口へかかったばかり……」
ふ、ふ、と笑って、
「失礼なことを申すようだが、さっき伺っていると、二日ばかりなにも喰べず水ばかり飲んでいらしたということだが、その足では、まずまずどんなことがあっても駕籠を追いぬくの、先まわりして待伏せるなどということは出来ない。……いかがです」
「………」
「……ねえ、青地さん、あなたの家のあがり口へ氷の箱をおいて行ったのは、だれなんです。たとえ相手は氷でも、献上物へ手をかければ打首、獄門の大罪。……おまけに、時疫で大熱をだして苦しんでいる子息の命にかえてまで庇《かば》おうとなさる以上、あなたが、そのものの名を知らぬというはずはない」
青地は頭をたれ、長いあいだ愁然《しゅうぜん》としていたが、そろそろと顔をあげ、
「恐れ入ったご活眼。……なにもかもつつまず申しあげます。……じつは、手前が盗んだのではありません」
あらためて、畳に手をついて、
「正視《まさめ》に、そのものの姿は見ませぬが、あれを手前の家へ投げこんだものの心あたりはございます。……恥を申さねばなりませんが、手前には、長一郎という長男がございましたが、これがいかにも放蕩無頼《ほうとうぶらい》。いかがわしいものをかたらって町家へ押借《おしかり》強請《ゆすり》に出かけます。……眼にあまりまして、去んぬる年、勘当いたしましたが、いかに無頼でもそこは血の濃さ。……弟、源吾のほしがる雪を盗みとって家さきに投げこんだものと察し、生さき短い手前が、長一郎の罪をせおって打首になれば、いかな無頼なやつも本心に立ちかえるであろうと存じ、それゆえ、お上を欺《あざむ》くようなこんな仕方をいたしました」
顎十郎は、組んでいた腕をといて、
「お話はよくわかりましたが、それは、チト妙ですな」
「はて」
「……古帷子で顔をつつんで一ツ橋の門から駈けだし、お氷の駕籠につきあたって、あわててまた門内に駈けこんだその男は、酒井の大部屋で手遊びをしていた石田清右衛門という御家人《ごけにん》くずれ。……勝負のことで小者の小鬢を斬り、足にまかせて逃げだした鼻さきへ駕籠が来て、ついのはずみに駕籠をひっくり返し、これは、と狼狽《うろた》えて、また部屋へ逃げかえった……氷もなにも盗んじゃいないのです。いわんや、あなたの子息の長一郎さ
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