駈けるのは、なかなか大変でしたろう」
「お恥ずかしいことですが、息切れがいたして、今にも眼がくらむかと思うばかり。……どうして追いつきましたやら、不思議なくらいで……」
「それも、子がかわいさの一心。恩愛《おんない》の情というのは、えらい働きをするものですな。……盗りもせぬものを盗ったなどと言われるのも、ふしぎのひとつで……」
青地は、はッと顔をあげ、
「なんと言われる」
顎十郎は笑って、
「あなたも、じょうずに嘘がつけない方だ、そんな頼りないことで、よく藤波がだませましたな」
「これはしたり!」
「などと驚いたような顔が、また嘘」
青地は荒らげた声で、
「嘘とは、そもそもなにをもって。……なんと言われようと手前が盗んだに相違ない」
顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そんな大きな声をなすってもしょうがない。……それほどに言われるなら申しますが、いま、榊原から釣台が出たとおっしゃったようだが、榊原式部は前の月の中旬《なかごろ》、九段の中坂へお所がえになって、あの屋敷はいま空家になっていることをご存じですか」
「おッ、それは!」
「藤波はうっかり見のがしたろうが、あたしはそんなことじゃだまされない。……いかに江戸が繁昌でも、無人《ぶにん》の空家から祝儀の釣台が出てくることはない。もし、ほんとうにあったら、それは、お化の口」
チョロリと相手の顔を見て、
「……いいですか、あの日、お雪が氷室を出たのは、お添役の時計で十字五分。……一ツ橋へかかったのが十字四十五分。……ところで、あなたが氷室を飛びだしたのは、駕籠が出てから四半刻おくれた十字三十五分。……あなたがどんな韋駄天でも、本郷から一ツ橋までたった十ミニュートで駈けられるわけはない。……えらそうに言うようでお耳ざわりでしょうから、打ちあけて話しますが、じつは昨日、あの日の時刻に駕籠を出し、それから四半刻おくれて死物狂いに追いかけて見ましたが、駕籠が一ツ橋の門内へ入りかけるころには、あたしは、ようやく三崎稲荷《みさきいなり》の近く。……どうでも、十分ばかり遅れるのです。……念を入れて、もう一度やった、が、やっぱりいけない。……それで、今度は、加賀さまの早飛脚《はやびきゃく》で、小田原の吉三《きちさ》というのを頼んで駈けさせた。……一日で江戸と小田原を楽に往復するというえらい早足なんだが、やはり、追いつけない。……
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