たが、そういうわけなら、そんなひでえことを言うんじゃなかった」
「聞く通り、いかにもあわれな話だでの、なんとかして助けてやりたいと思っているんだが……」
「へい、へい」
「それについて、どうでも手を借りなけりゃならねえことがあるのだが、どうだ、貸してくれるか」
 部屋頭は、臀《いしき》を浮かせて、
「貸すも貸さねえもありゃしません。……陸尺といや駕籠の虫、見かけはけちな野郎だが、水道の水を飲んだおかげで気が強い。弱い者なら腰をおし、強いやつなら向うっつら。韋駄天が革羽織《かわばおり》で鬼鹿毛《おにかげ》にのってこようがビクともするんじゃありません。……藤波だか蛆《うじ》波だか知らねえが、へたに青地を追いおとそうというなら、江戸の役割三百五十六部屋、これにガエンと無宿《むしゅく》を総出しにし、南の番所を焼打にかけてしまう」
 顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、
「まあまあ、そう意気ごまんでもいい。……おれが頼みたいというのは、そんな大したことじゃない。すまないが、為と寅に駕籠を舁《か》かせて、一ツ橋御門まで行ってもらいたいんだ」
 部屋頭は、怪訝《けげん》な顔で、
「へい、為と寅に駕籠を……。それで、どうなさろうというんで」
「……おととい、氷をのせて行ったときと同じように、氷室から一ツ橋まできっちり四十ミニュートで行きつくように歩いてもらいたい」
「四十ミニュートで……。ですから、どういう……」
 顎十郎はトホンとした顔で、
「……氷献上の駕籠が氷室を出てから、どう氷見役人が小手まわしがきいても、それだけの氷を分けおわるには、すくなくとも四半刻(三十分)はかかる。……駕籠が氷室を出てから四十ミニュートで一ツ橋につくとして、ものの四半刻も遅れてから追いかけて果して駕籠に追いつけるものかどうか……」
 部屋頭は膝をうって、
「なるほど、わかりました。……駕籠を舁きだしておいて、四半刻ほどたってから追いかけ、ほんとうに追いつけるものかどうか試してみようとおっしゃる……」
「……まず、その辺のところだ。……どうでも追いつけないなら、こりゃ、青地のやったことじゃない。……追いつけるか追いつけないか、これが、青地が罪になるか罪にならないかの境いだ」
 と言って、言葉を切り、
「すまないが、だれか氷見役人のところへ行って、だいたい、なん刻ごろにお振舞の氷がおしまいになったかたず
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