ましたと手の裏をかえすような申立てをしているそうで。……ご承知か知りませんが、源右衛門というひとは肥前|彼杵《ぞのき》で二万八千石、大村丹後守《おおむらたんごのかみ》の御指南番《ごしなんばん》で板倉流《いたくらりゅう》の居合の名人。……たとえ海老《えび》責めされればとて、そんなことぐらいで追いおとされるような人柄じゃない。……このへんに、なにかアヤがあるのだと思いますが……」
 顎十郎は、腕を組んでうつむいていたが、急に顔をあげて、
「たしかにあかしを立てるとはお引きうけできませんが、おなじ長屋の住人が、そういう羽目になっているというのを、だまって見すごしてもいられない。……ようございます、なんとか、ひとつ、やって見ましょう」

   韋駄天《いだてん》

 手拭いを肩にかけ、寅吉とつれだって有馬の湯を出る。無駄ッ話をしながら本郷三丁目を左へ曲って加賀さまの赤門。
 役割部屋へ入って行くと、みな懐《なつか》しがって、寝ころんでいたやつまで、はね起きて来て、右左から、先生、先生、と取りつく。
 顎十郎はあがり框に近いところへあぐらをかいて陸尺がくんでだす茶をのんびりと啜りながら、ぐるりとまわりを取りまいているつまらぬ顔を見まわし、
「こんどは、なにか、妙な騒ぎがあったそうだの」
 部屋頭が、割膝《わりひざ》でそそり出てきて、
「いや、どうも、馬鹿な騒ぎで……。為と寅のおかげであっしら一同えらいお叱りで。……これがほんとうのそば杖……。いってえ、こいつらは間ぬけなんで、駕籠に押しあてられたぐれえでひっくり返るなんてえのはざまのねえ話。……恥ずかしくてなりません」
「まあ、そう言ったものでもない。……ものには、はずみというものがある。畳の上でころんでも、間が悪けりゃ、足をくじく。……いま、有馬の湯できいたばかりなんだが、氷を盗んだとか盗まないとかいう浪人者は、じつは、おなじ割長屋にすんでいる男での……」
 ……家には、ことし十歳になる伜が時疫で熱をだして寝たっきりになっていることから、青地が氷をもらいそこねて逆上し、つまらないことを口走ったてんまつを話してきかせると、部屋じゅうは、急に湿りかえり、なかには鼻汁《はな》をすするやつまでいる。
 部屋頭は、手拭いで鼻の頭をこすりながら、
「そんな経緯《いきさつ》は知らねえもんですから、腹立ちまぎれにドジだの腰ぬけだのと言いまし
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