、囈言のあいだにも、雪をくれ、雪をくれとせがみます。……親の身としては、息のあるうちにせめてひと口なりとすすらせてやりたい。間もなくお雪があがるということで、丼をひっつかんで駈けつけたが、ちょっと遅かったばっかりに貰いそこね、ガッカリと気落《きおち》して、魂がぬけたようにトボトボと帰って来た、……その鼻さきへ桐箱に入ったお氷。……当座は、夢を見てるんだと思ったそうです。……あまり欲しい欲しいが凝りかたまって、現《うつつ》にこんなものを見るのだと思った……」
「そりゃ、そうありましょう」
「……さわって見ると、これが冷たい。……たしかに、夢じゃない……すぐ届けりゃよかったんですが……」
「子のかわいさにひかされて、お雪に手をつけた」
「その通り……。いくら逆上したといっても、そこはお侍。それをしたら大変なことになると、いったんは、すぐ訴えでようと思ったそうですが、眼の前で、せがれが熱に苦しんで、虫のような細い声で、お雪を、お雪を、と囈言をいっている……」
「ふむ」
「……ほうっておけば、どうせ、溶けてなくなるもの、ひとかけらぐらはいいだろう。……さあ、雪だぞ、と言って、子供の口にさしつけると、ひと心地のないながらに、ああ冷たい、うまいねえ、と子供は夢中になって喜びます。……なにしろひどい熱ですから、ものの五分もたたぬうちに、また喉をかわかして、雪をおくれという……。こうなるとたまらない、堰《せき》が切れたようになって、もうひとかけらぐらい、いいだろう……もうひと口はいいだろう。……いいだろう、いいだろう、で、すすらせるほうと溶けるほうで、見る見る雪がへってゆく。こうなればもう破れかぶれ、いっそのこと、この雪で額や胸を冷やしてやったら、どんなに子供が楽になるだろう……。手拭いに押しつつんで胸と頭へあててやると、ああ、涼しいね、と子供はよろこぶ。……あッと気がついたときには、もう、ひとかけらの氷もない」
顎十郎はいつになく、しおっとして、
「いやどうも、気の毒な話ですな。……それで、どうしました」
「しまったと思ったが、もう遅い。……桐箱をかかえてボンヤリあたしのところへやって来て、ありようをくわしく話し、これから真砂町《まさごちょう》の自身番へ名のって出るつもりだから、どうか伜のことはおたのみ申す。……誓って、手前が盗ったのではありませんから、かならず疑いはとけると思
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