すが、これも、チラと見かけたばかり。……あんまり、きっぱりしたことも言われねえ。……まったく、埓《らち》のねえ話で……」
「……それで、お雪盗びとはわからずじまい……」
「いや、そうじゃねえんで……。青……青……、名前は忘れましたが、なんとかいう浪人者が、南番所の藤波の手でつかまって、これがその、だいたい、そいつだろうということにきまりかけているんだそうで、へえ」
「藤波が……。それは、素早いの」
ふたりが話あっていると、眠っていると思っていた謡の隠居がモゾモゾと起きだして、
「……ええ、そのことなんでございますが……」
顎十郎は振りむいて、
「これは、ご隠居さん、眠っていらっしゃるのだと思って声もかけませんでしたが……」
六十ばかりの品のいい老人で、ひとつまみほどの白髪の髷を頭にのせている。膝行《にじ》るようにして寄って来て、
「眠るどころのだんじゃございません、さきほどから、お話をうかがっておりました」
と言って、眼をしょぼつかせ、
「……お話のようすでは、まだご存じなかったようですが、南番所へ引きあげられた浪人者というのは、あなたもご存じでしょう、いつも肩だすきで傘張に精だしている、すぐ裏の浪人者……青地源右衛門《あおちげんえもん》……」
「知らないわけはない……糊《のり》売ばばあの奥どなりの、……源吾とかいう子供とふたり暮しの……」
「へえ、そうでございます」
「話はしたことはありませんが、手前の二階の窓からちょうど眼の下で、なにしろ、ひと間きりの家だから、いやでも胴中まで見とおし。……四五日前に、子供が熱を出したとかで、だいぶと心配らしく見えましたが……。あれが、お雪盗びと……」
「盗んだのか、盗まぬのか、それは、あたしどもには、きっぱりしたことは申されませんですが、ありようは……、と言っても、源右衛門さんの述懐《じっかい》ですが、自分が盗んだのではなく、だれか知らないがお氷の入った桐箱をあがり口へおいて行った者があると、そう言うんでございます」
「はて、……お氷の箱があがり口に……」
「……加賀さまへお雪をもらいに行き、貰いそこねてぼんやり帰ってくると、あがり口に見なれない桐箱がおいてあるので、なんだろうと思って蓋をはらって見ますと、それが、胸も焦げるほどに欲しいお氷……」
「ほほう」
「……と申しますのは、ご承知のように、伜がずっとひどい大熱で
前へ
次へ
全20ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング