…それにしても、ただぼんやり見ているのも無聊《ぶりょう》。……さいわい手前もからす凧を持って来ましたから、この塀そとで凧あげをしましょう。……どうです、藤波さん、あなたもひとつ。……これが風をはらんで空に舞いあがって行くのを見ていると、なんとなく気宇が濶《ひら》けて愉快なものです」
 藤波は焦《いら》立って、
「あげるなら、あげるがよろしいが、さっきの話のほうはどうなるんです。……なにか、奇妙なものを見せるということだったが……」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ですから、これよりおもむろにご高覧《こうらん》に供《きょう》します。……せいてはことを仕損ずる。……まあまあ、手前の凧あげでも見ておいでなさい。……仙波阿古十郎、これから凧をあげます。神田小川町は凧八のからす凧、これよりとんびお迎いのていとござい」
 テンテレツク、と口三味線《くちじゃみせん》で囃しながら、器用な手つきで凧糸をさばき、はずみをつけてヒョイと風に乗せる。
 顎十郎のからす凧は、いったん地面を這って、あぶなく塀ぎわの小溝へ落ちかけたが、そこで、あふッとひと煽りあおりつけられると、ツイと横ざまにのしあがってグングンと空へ。……糸巻からくりだされた糸の先にあやつられ、黒い翼に陽の光をうけて鈍銀色《にぶぎんいろ》に光りながら、まるで、のびあがるようにどこまでもあがって行く。
 のばせるだけ凧糸をくりだすと、顎十郎は、藤波のほうへ振りかえって、
「どうです、なかなかあざやかなもんでしょう。……陽の光をうけてゆるゆると舞っているところなんざあ、まるで生物《いきもの》のよう。こうして糸を持っていると、ブルブルと震えが伝わって来て高みの心が手に感じられるようで、なんともいい心持なものです」
 顎十郎は、自分のからす凧と金座の地内からあがっているからす凧を互いちがいに指さしながら、
「ときに、藤波さん、手前のからす凧はこの通りあんな高みまであがって行きますが、金座のからす凧のほうは、どういうものか、みなあんなふうに、妙に屋棟《やのむね》ちかくを這いまわっている……十が十、ひとつ残らずそうなんだから、チト変だとは思いませんか」
 藤波は気もなく、
「それは、凧の出来にもよれば、大きさにもよる。また、釣のぐあいによって、いろいろあがり方がちがうだろう、かくべつ不思議なんというこっちゃない」
「おや、そうですか。それな
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