顎十郎捕物帳
三人目
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ご書見《しょけん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白足袋|跣足《はだし》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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左きき
「こりゃ、ご書見《しょけん》のところを……」
「ふむ」
書見台《しょけんだい》から顔をあげると、蒼みわたった、鬢《びん》の毛のうすい、鋭い顔をゆっくりとそちらへ向け、
「おお、千太か。……そんなところで及び腰をしていねえで、こっちへ入って坐れ」
「お邪魔では……」
「なアに、暇ッつぶしの青表紙、どうせ、身につくはずがない。……ちょうど、相手ほしやのところだった」
「じゃア、ごめんこうむって……」
羽織の裾をはね、でっぷりと肥った身体をゆるがせながら、まっこうに坐ると、
「御閑暇《おしずか》なようすで、結構《けっこう》でございます」
こちらは、えがらっぽく笑って、
「おいおい、そんな挨拶《あいさつ》はあるめえ。……雨が降りゃア、下駄屋は、いいお天気という。……おれらは忙しくなくっちゃ結構とは言わねえ」
「えへへ、ごもっとも。……どうも、この節《せつ》のようじゃ、ちと、骨ばなれがいたしそうで……」
「これ見や、捕物同心が、やしきで菜根譚《さいこんたん》を読んでいる。……暇だの」
引きむすぶと、隠れてしまいそうな薄い唇を歪めて、陰気に、ふ、ふ、ふと笑うと、書見台を押しやり、手を鳴らして酒を命じ、
「やしきでお前と飲むのも、ずいぶんと久しい。……まア、今日はゆっくりしてゆけ」
一年中機嫌のいい日はないという藤波、どういうものか今日はたいへんな上機嫌。せんぶりの千太は呆気《あっけ》にとられて、気味悪そうにもじもじと揉手《もみで》をしながら、
「えへへ、こりゃ、どうも……」
といって、なにを思い出したか、膝をうって、
「ときに、旦那。……清元千賀春《きよもとちがはる》が死にましたね」
「ほほう、そりゃア、いつのこった」
「わかったのは、つい、二刻《ふたとき》ほど前のことでございます。……ちょうど通りすがりに、露路口《ろじぐち》で騒いでいますから、あっしも、ちょっと寄ってのぞいてまいりました」
「そう、たやすくはごねそうもねえ後生《ごしょう》の悪いやつだったが……」
「長火鉢のそばで、独酌《どくしゃく》かなんかやっているうちに、ぽっくりいっちまったらしいんでございます。……なにか弾《ひ》きかけていたと見えて、三味線を膝へひきつけ、手にこう撥《ばち》を持ったまま、長火鉢にもたれて、それこそ、眠るように死んでいました」
「ふうん……医者の診断《みたて》は、なんだというんだ」
「まア、卒中《そっちゅう》か、早打肩《はやうちかた》。……あの通りの大酒くらいですから、さもありそうな往生。……あッという間もなく、自分でも気のつかねえうちに死んじまったろうてんです。だれか、早く気がついて、肩でも切って瀉血させてやったら助からねえこともなかったろうにと医者が言っていましたが、なにしろ、運悪くひとりだから、そういう段取りにはならねえ。……そんな羽目になるというのも、これも身の因果。ふだんの悪業《あくごう》のむくいでね、よくしたもんです」
「医者は、早打肩だと言ったか」
「へえ。……なるほど、そう言われて見れば、顔も身体《からだ》も、ぽっと桜色をしておりましてね。とんと死んでいるようには見えません」
「そういうことは、あるには、ある。……それから、どうした」
「どうせ、邪魔にされることは、わかり切った話ですが、北奉行所のやつら、どんなことをしやがるか見てやろうと思いましてね、そのまま居据っていると、ひょろ松が乗りこんで来ました」
「お前が突っ張っていたんでは、さぞ、いやな顔をしたこったろう」
「とんとね、……せんぶり[#「せんぶり」に傍点]という、あっしのお株《かぶ》をとったような、なんとも言えねえ苦い面をしましてね、こりゃア、千太さん、たいそう精が出るの。他人の月番のおさらいまでしていちゃてえへんだろう、とぬかします。……あっしも意地になって、この節は、いろいろと変ったことをして見せてくれるから、きょうはひとつお手ぎわを拝見しようと思ってな。……どうだ、この仏を種にして、また面白えことをして見せてくれめえか、と、一本やっておいて御検死にまじって見ていますと、とっくりけえし、ひっくりけえしする千賀春の身体に、どこといって鵜《う》の毛で突いたほどの傷もありません……首を締めたあともなけりゃ、一服盛られたなんてようすもない、まるで、笑ってるような顔で死んでいるんです……」
藤波は、底意《そこい》ありげな含み笑いをして、
「ふん、あの仏にしちゃ、おかしかろう」
千太は、うなずいて、
「まったく、あの毒虫にしちゃ、もったいねえような大往生《だいおおじょう》で、みなも、呆気にとられたくれえなんでございますよ」
「あんなのを、女郎蜘蛛《じょろうぐも》とでもいうのだろうの。蕩《た》らしこんじゃア押しかけて行って金にする。それも、ちっとやそっとの額じゃ、うんとは言わねえ。……千賀春が死んだときいたら、ほっとするむきア、三五人《さんごにん》じゃきかねえだろう。……それにしても、都合のいい時に死んだもんだの。すりゃア、まるで、ご注文だ」
「ですから、その辺のところは、実にうまくしたもんだというんです。……そりゃア、ともかく、なるほど評判だけあっていい器量だ。引起したところを見て、さすがのあっしも……」
「惚れ惚れと、見とれたか」
へへへ、と髷節《まげぶし》へ手をやって、
「いや、まったく……あれじゃ、だれだって迷います。罪な面だ」
広蓋へ小鉢物と盃洗をのせて持ち出して来た小間使へ、用はないと手を振って、
「……だが、たったひとつ、難がある」
盃のしずくを切って、千太につぎながら、
「乳房が馬鹿でかすぎらア」
千太は、えッといって藤波の顔を見ていたが、急に、へらへらと笑い出して、
「こりゃア、どうも。……旦那まで千賀春の御講中《ごこうちゅう》だったたア、今日の今日まで、存じませんでした。……じゃ、たんといただきやす。とても、ただじゃそのあとは伺《うかが》えねえ」
「馬鹿ア言え、そんなんじゃねえ」
「などと仰言《おっしゃ》るが」
「櫓下《やぐらした》で梅吉と言っていた時にゃあ一二度逢ったことがあるが、膚《はだ》を見たなア、今朝がはじめてだ」
千太は、あわてて盃をおき、
「じゃア、ごらんなったんで」
「ああ、見た」
千太は、毒気をぬかれて、
「旦那も、おひとが悪い。さんざ、ひとに喋舌《しゃべ》らせておいて、ああ、見た、はないでしょう。……それに、あっしまで出しぬいて……」
「悪く思うな。……ちょうど、つい眼と鼻の、露月町《ろうげつちょう》の自身番にいたでな」
ゆっくりと盃をふくむと、
「千太、ありゃア、早打肩なんぞじゃねえ、殺《や》られたんだな」
千太は、ぷッと酒の霧を吹いて、
「これは失礼」
あわててその辺を拭きまわりながら、
「でも、まるっきり傷なんてえものは……」
藤波は、ニヤリ笑って、
「ときに、千太、千賀春は、どっちの手に撥を持って死んでいた?」
千太は、こうっと、と言いながら、科《しぐさ》でなぞって見て、
「あッ、左手でした」
「千賀春は、左ききか」
「そ、そんな筈はありません」
「妙じゃねえか」
千太は、眼を据えて、
「な、なるほど、こりゃア、おかしい」
急に、膝を乗り出して、
「すると、殺っておいて、誰か手に持たせた……」
「まずな。……殺ったやつは、たぶん、左ききででもあったろう」
「ありそうなこってすね。しかし、どうして殺ったもんでしょう。いまも申しあげた通り……」
「鵜の毛で突いたほどの傷もねえ、か。……ところで、見落したところが一カ所ある筈だ」
「見落し。……これでばッかし飯を喰ってる人間が五人もかかって、いってえどこを見落しましたろう」
ズバリと、ひとこと。
「乳房のうしろ」
千太は、ひえッと息をひいて、
「いかにも、……そこにゃア気がつかなかった」
藤波は、うなずいて、
「あんなものがぶらさがっていりゃア、誰だって、こりゃア気がつかねえ。……どうも、がてんがゆかねえから、最後に、あの、……袋のような馬鹿気たやつを、ひょいともたげて見ると、乳房のうしろに針で突いたほどの、ほんの小さな傷がある。……おれの見たところでは、たしかに、鍼痕《はりあと》。……心臓の真ン中。……あそこへ鍼を打たれたら、こりゃア、ひとったまりもねえの」
千木は、感にたえたようすで、
「なるほど、うまく企みやがった」
「近所で聞き合わして見ると、杉の市という按摩鍼《あんまはり》が、いつも千賀春のところへ出入りしていたという。……内職は小金貸《こがねかし》。……これが、夫婦になるとかなんとか、うまく千賀春に蕩らしこまれ、粒々辛苦《りゅうりゅうしんく》の虎の子を根こそぎ巻きあげられ、死ぬとか生きるとか大騒ぎをやらかしたというのは、ついこないだのこと……」
といって、眼の隅から、ジロリと千太の顔を眺め、
「なんのこたアねえ、こいつが、左きき」
「おッ、それだ」
「そこで、おりゃア、つい先刻《さっき》、顎十郎に手紙を書いて持たせてやった。……千賀春こと人手にかかってあえない最期。辱知《じょくち》の貴殿に、ちょっとお知らせもうします、といってな」
千太は、むっとした顔つきになり、
「こりゃア、旦那のなさることとも思えねえ。……そ、そんなことをしたら……」
藤波は、手酌でぐっとひっかけておいて、驕慢《きょうまん》に空嘯《うそぶ》くと、
「ふッふッふ……ところで、甚《はなは》だ遺憾にぞんずるが、杉の市は直接《さしあ》たっての下手人《げしにん》じゃねえ。どうしてどうして、これにゃア複雑《いりく》んだアヤがある。こいつを、ほぐせたら大したもんだ。……それで、ひとつ、お手並を拝見しようと思っての。なにしろ、こんどは、こっちが叩きのめしてやる約束だから……」
冥土《めいど》へ
「おい、ひょろ松……おい、ひょろ松……」
垢染んだ黒羽二重の袷を前下がりに着、へちまなりの図ぬけて大きな顎をぶらぶらさせ、門口《かどぐち》に立ちはだかって、白痴《こけ》が物乞するようなしまりのない声で呼んでいるのが、顎十郎。
これが、江戸一と折紙《おりがみ》のついた南の藤波友衛を立てつづけに三四度鼻を明かしたというのだから、まったく嘘のような話。
ちょっと類のない腑抜声《ふぬけごえ》だから、すぐその主がわかったか、奥から小走りに走り出して来たのは、北町奉行所与力筆頭、叔父森川庄兵衛の組下、神田の御用聞、蚊とんぼのひょろ松。
草履を突っかけるのももどかしそうに門口へ飛んで出るより早く、
「おお、阿古十郎さん……実ア、いま、脇坂の部屋へお伺いしようと思っていたところなんで……」
顎十郎は、懐中から一通の封じ文を取り出すと、ひょろ松の鼻の先でヒラヒラさせながら、
「おい、ひょろ松、藤波のやつが、こんな手紙をよこした。……千賀春が、どうとかこうとかして、鍼が乳房へぶッ刺さって、按摩の杉の市は左ききだから、とても甘えものはいけねえだろうのどうのこうの。……実ア、まだよく読んでいねえのだが、なにやら、ややこしいことがごしゃごしゃ書いてある。……大師流で手蹟《て》はいいが、見てくればかりで品がねえ。筆蹟は人格を現すというが、いや、まったく、よく言ったもんだ、こればっかりは誤魔化《ごまか》せねえの。鵜《う》の真似《まね》、烏《からす》……牡丹に唐獅子、竹に虎、お軽は二階でのべ鏡か……」
例によって、裾から火がついたように、わけのわからぬことをベラベラとまくし立てておいて、急にケロリとした顔をすると、
「それはそうと、ぜんてえどうしたというのだ、千賀春という
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