とばかりで、肩から手でさぐりあげて行って、そこは角太郎とちがって馴れたもんです。中腰になったままで、ぼんのくぼへ、ずッぷり鍼をおろして、二三度強く震《ふ》りこんだ。……度胸がいいようだが、やったとなると、あとはもう逃げ出したい一心。かねて企んだ通り、左手に撥を握らせると、あとしざりに勝手口からよろけ出した。……しかし、まア、妙なこともあるものですねえ、同じ日の同じ刻限に、同じ方法でやりに来るというんだから、日本始まって以来、こんな変ったのも少ねえでしょう。二人がここでひょっくり出っくわさなかったのが、ふしぎなくらい。……どっちの肩を持つわけでもありませんが、角太郎のやつも貧乏くじをひいたもの」
「そうとばかりは言われねえさ。……これで落《さげ》になったわけじゃない、まだ後があるのだ」
 顎十郎は、ニヤリと笑って、
「ときに、この座敷は今朝のままになっているといったな」
「へえ、塵ッ葉ひとつ動かしません」
「そんなら、あそこを見ろ……長火鉢の端の畳の上に、酒の入った銚子が一本おいてあるだろう」
「ございます」
「千賀春が坐っていたように長火鉢のむこう側へすわって、手をのばしてあの銚子を取って見ろ」
 ひょろ松は、立って行って長火鉢のむこう側へすわり、火鉢越しにせいいっぱい手をのばして見たが、とても銚子までは届かない。
「おい、ひょろ松、たったひとりで独酌をやっているやつが、そんなところへ銚子をおくか?……二人が忍んで来るすこし前に、誰かここで千賀春に酌をしていたやつがある」
「……なるほど」
「ついでだから、言っておくが、杉の市も下手人でなけりゃあ、角太郎も下手人じゃねえ」
「えッ」
「千賀春は、二人がやって来る前に……もう、死んでいたんだ」
 ひょろ松は、膝を乗りだして、
「……するてえと、ここにいたやつが本当の下手人なんで」
 顎十郎は、のんびりした顔で天井をふりあおぎながら、
「さあ、どうかな……ともかく、そいつは、間もなくここへやって来る」
「ここへ……あの、やって来ますか」
「女だ……まず、芸者かな。……その証拠を見せてやるから、もう一度、長火鉢のそばへ寄れ」
 ひょろ松を長火鉢のそばへすわらせ、じぶんは立ちあがって、行灯をすこし上手へ移し、
「こうすると、火鉢の灰の中に、なにかキラリと光るものが見えるだろう。……ほじくり出して見ろ」
 ひょろ松は、いきなり手を突っこんで灰の中から光るものをつまみあげ、
「お、こりゃア、銀簪《ぎんかん》!……角菱《すみびし》と三蓋松を抱きあわせた比翼紋《ひよくもん》がついております」
「ちょっと詮索すりゃア、すぐ持ちぬしが知れる品。……どうしたって、このままに放ってはおけまい」
「なるほど、千賀春は鬘下地《かつらしたじ》。……こりゃア、千賀春のものじゃありません……それに、こうして脚をしごいて見ると、指にべっとりと髪油がつく。たしかにきのう今日のもの。……すりゃア、こりゃアお言葉どおり、たしかに来ます」
 やや遠い露路口で、かすかに溝板《どぶいた》がきしる音がする。
 二人は目を見あわせると、銀簪をもとの通り灰の中へ投げいれ、行灯を吹きけして勝手へはいり、障子のかげで息を殺す。
 軽い足音は、忍び忍び格子戸の前まで近づいて来て、しばらくそこで躊躇《ためら》うようすだったが、やがて五分きざみに格子戸をひきあけて踏石へにじりあがり、手さぐりでそろそろと部屋へ入って来て行灯に火をつけた。
 障子の破れ目から覗いて見ると、年のころ二十ばかりで、すこし淋しみのある面だちの、小柄な芸者。
 くすんだ色の浜縮緬《はまちりめん》の座敷着に翁格子《おきなごうし》の帯をしめ、島田くずしに結いあげた頭を垂れて、行灯のそばに、じっとうつむいてすわっていたが、小さな溜息をひとつつくとすこしずつ長火鉢のほうへいざり寄って行って、火箸で灰の中をかきまわしはじめた。
 その時、とつぜん、ガラリと間《あい》の襖があいて、ヌッと敷居ぎわに突っ立ったのが、藤波友衛。
「おい、小竜!……妙なとこで、妙なことをしてるじゃねえか。……夜ふけさふけに、いったいなにをしているんだ」
 小竜と呼ばれたその芸者は、ハッと藤波のほうへ振りかえると、ズルズルと崩れて、畳に喰いついて身も世もないように泣き出した。
「顔にも似げない、ひでえことをするじゃアねえか。いくら、男を寝とられたからって、濡れ紙で口をふさぐたア、すこしひどすぎやしないか」
 障子のこちらにいる顎十郎、なにがおかしいのか、高声でへらへらと笑い出した。
 藤波は、急に眼じりを釣りあげてキッと障子のほうを睨みつけ、
「おお、そこにいるのは仙波だな、そんなところで笑っていないで、こっちへ出て来なさい。……ここまで追いつめたのは、素人の手のうちとしちゃ、まず上出来。……この勝負は相引《あいひき》だ」
 勝手の障子をサラリとあけると、顎十郎、揚幕《あげまく》からでも出てくるような、気どったようすで現れてきて、
「これはこれは、藤波先生。……どうも、あなたは人が悪いですな。ちゃんと亥刻《よつ》とお約束がしてあるのに、こんなお早がけにおいでになるんで、だいぶ、こちらの手順が狂いましたよ」
 といいながらドタドタと小竜のほうへ歩いてゆき、
「……もしもし、小竜さんとやら……なにも、そんなところでヒイヒイ泣いてるこたァないじゃないか。……そこに突っ立っている先生にちゃんと言ってやりなさい。……濡れ紙で口をふさいだなどと飛んでもない。……あたしが来た時、千賀春さんはもう死んでいたんです、と立派に言いきってやんなさい。……余計なことは言う必要がない……掛けあいに来たのだろうと、ごろつきに来たのだろうと、いやみを言いに来たのだろうと、あるいはまた、しんじつ、殺す気で来たんだろうと、そんなことは一言もいりません。……なにしろ、お前さんが来た時にア、たしかに千賀春さんは死んでいたんだから、ありのまま、それだけを言やアいい。……さあさあ、どうしたんだね」
 小竜は、涙に濡れたつぶらな眼で顎十郎の顔を見あげ、
「まア、あなた……どうして、それを。……あちきは、もう、どう疑われてもしようがないと、覚悟をきめていましたのに」
 藤波は、額に癇の筋を立て、
「おいおい、仙波、つまらない智慧をつけて言い逃そうとしたって駄目なこった。……相手は藤波だ。このおれの眼の前で、あまり、ひょうげた真似をするなア、よしたらよかろう」
 顎十郎はまあまあと手でおさえ、
「べつに智慧をつけるの、どうのってこたアありません。……しんじつ、ありのままのことを言ってるだけのこと。……嘘だと思ったら、これから小竜が言うことをじっくりきいてごらんなさい。それが、どういう次第だったか、よッくご納得がゆきましょうから。……さア、小竜さん、この先生がいきさつを聞きたいとおっしゃる。……ゆうべのことをありのままに話してごらん、なにもビクビクするこたアない」
 小竜は美しい科《しぐさ》でちょっと身をひらくと、すがりつくような眼つきで顎十郎の顔を見あげながら、
「では、お言葉にしたがいまして……。細かないざこざはもうしませんが、どうでも肚にすえかねることがござんして、その埓《らち》をあけようと思い、ゆんべ、宵の口の五ツ半ごろここへ押しかけてまいりました。……知らない仲ではござんせんから、上り口で声をかけ、この座敷へ入って見ますと、千賀春さんは、長火鉢にもたれてぐったりと首を垂れております。むかしから後ひきで、飲み出すと、つぶれるまで飲むほうだから、あちきは、またいつもの伝だと思いまして、……どう、おしだえ、千賀春さん、見りゃア、まだ四本《しほん》、こんなこってつぶれるとはむかしのようでもないじゃないか。まア、もうひとつあがれ、なんて申しながら、そこの銚子をとって酒をつぎ、そいつを、さアと突きつけたはずみに、わちきの手がむこうの肱《ひじ》にふれたと思うと、千賀春さんはがっくりと火鉢の中へのめってしまいました……」
「なるほど……」
「……おどろいて、火鉢のむこうへ廻りこんで行って抱きおこそうと思って、なにげなしに手にさわりますと氷のように冷たい……顔も首すじも酒に酔ったように桜色をしておりますのに、それでいて、まるっきり息をしていないんでござんす。あッと、千賀春さんの身体《からだ》を突きはなしましたが、柳橋《やなぎばし》では誰ひとり知らないものもござんせん、わちきと千賀春さんのいきさつ。……こんなところを見られたら、どう言いはってもあちきが殺したと思われましょう。……そう思うと、急に恐ろしくなりまして、死んだ気になって千賀春さんを抱きおこし、さっきの通りに火鉢にもたれさせ、宙にでも浮くような気持でここから走り出したんでござんすが、家へ帰って見ますと、比翼の紋を打った平打の銀簪がござんせん。……そう言えば、千賀春さんを抱きおこすひょうしに、キラリと火鉢の中へ落ちこんだような気もいたします、それで……」
 顎十郎は手を拍って、
「いや、そのへんで結構……あとはこちらに判っている」
 藤波は壁ぎわにすわって、冷然たる顔つきで小竜の話を聞きながしていたが、小鼻をふるわせてふんとせせら笑い、
「判ってるとは、いったいどう判っている」
「これはしたり……これでもまだおわかりになりませんか。……これは少々意外ですな、小竜が開陳《かいちん》したのはなるほどただの話だが、たったひとつ、動きのとれない証拠がある」
「ほほう、それはいったい、どういうことです」
「手が冷たいのに、顔も首筋も桜色をしていたというところ……」
「ふん、だから、それが?」
「……あなたは、さきほど濡紙で口をふさいだと言われましたが、それでは身体にあんな血の色は残らない、かならず蒼白くなってしまうはず。……ねえ、かくいう手前が見た時も、まだほんのり薄赤かったのだから、あなたがごらんになった時はさぞ赤かったろう。……いったい、これはなんだとお思いです……どういう死にかたをすれば、死んだあとも、あんな膚色をしているとお考えです」
 藤波は、おいおい不安をまぜた険《けわ》しい顔つきになって、
「さア、それは……すると、なにか毒でも」
「おやおや、心細いですな。……あなたは、さきほど、この勝負は相引になったと言われたが、あなたがそれをご存じないとすりゃあ、どうも、引分けということにはならないようだ。……つまり、あなたの負けです」
 と、ペラペラやっておいて、
「さらば、秘陰《ひいん》をときあかしましょうか。……なんてほどの大したこっちゃアない。……ねえ、藤波さん、千賀春は、炭火毒《すみどく》にあたって死んだんですよ。……おやおや、あんぐりと口をあいて。……あっけにとられましたか?……嘘だと思ったら、御嶽山《おんたけさん》へでも行った時、よく気をつけて見ていらっしゃい、石窟《いわむろ》の閉めきったところで炭火をどんどん起してちぢかんでいると、心気《しんき》の弱いものは、たまにこんな死に方をする。……炭火毒にあたって死んだ徴《しるし》はね、身体中が薄桃色になって、これが死んだとは思えないようになっているものなんですぜ。……お役がら、これくらいのことは、ご存じのほうがいいですな、藤波さん……」



底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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