うろたえるな。まだ話がある」
「ほほう」
「こんどの堺屋の一件は、やはり貴様の出しゃばりだろうが、お気の毒だが、でんぐりけえすぞ、そう思って貰おう。こッちに手証《てしょう》があがった」
顎十郎は、すこし真顔になって、
「出しゃばりとか、堺屋とか、そりゃア、いったい、なんのことです。どうも、一向……」
千太はいままで、苦虫を噛んで突っ立っていたが、藤波を押しのけるようにして進み出ると、
「なんだと、ひとをこけにしやがって、いいかげんにとぼけておきやがれ。いってい、てめえなんざ、御府内《ごふない》へつんだす面じゃねえ。ねえ、旦那、気味が悪いじゃありませんか。あッしはね、こいつの面を見ると、きまってその晩、瓢箪の夢を見てうなされるんです」
藤波は薄い唇をほころばして白い歯を出し、
「まったく、珍な顎だの、いやな面だ」
顎十郎は、ゆっくり一足進みよると、眼を据えて、穴のあかんばかり、藤波の顔を瞠《みつ》めていたが、唐突《とうとつ》に口をひらいて、
「つまらぬことをいうようだが、藤波さん。……むかし、わたしが死ぬほど惚れた女がいましてね、その家の紋が二蓋亀《にがいがめ》という珍らしい紋どころだった。見れば、あなたのかたびらの紋も二蓋亀。……なんだか、ほのかな気持になりましてね、どうも、あなたを斬る気がしねえんだ。ゆるしてあげるとしよう」
顎十郎は袖を払うようにして、のっそりと今きたほうへ歩き出す。藤波は、千太とチラと眼を見あわせ、せせら笑いながら、
「なにを、たわけた。……さあ、帰《け》えろう」
二人は反対のほうへ帰りかける。その途端、藤波の背中で、エイッという劈《つんざ》くような気合もろとも、チャリンという鍔鳴りの音。
「やるか!」
藤波が腰をひねって、とっさにすっぱ抜こうとすると、この時、顎十郎は懐手をして、もう四五間むこうをゆっくりと歩いていた。
「なんだ、つまらぬやつ」
千太は、聞えよがしに、
「眼の前で『顎』とひと言いうと、かならずぶった斬ると評判だけは高えが、なんのことやら……」
と言って、藤波のうしろから歩き出そうとし、とつぜん、うわッと声をあげ、
「旦那!」
「なんだ、けたたましい」
「せ、背中の紋が丸く切りとられて、膚《はだ》が出ています」
「えッ」
かたびらの背中だけが紋なりに丸く切りとられ、膚には毛ほどの傷もついていなかった。
ぞっと冷水をあびたようになって、言葉もなく二人が眼を見合せていると、人気《ひとけ》のない筈の杉の林の中で、大勢の人間がドッと声を合わして笑い出した。木立の間をすかして見ると、これは、いったい、どうしたというのだろう。馬丁、陸尺、中間ていのものが、凡そ五十人ばかり、むらむらと雲のようにむらがっていた。
ねずみ
顎十郎が組屋敷の吟味部屋《ぎんみべや》へ入って行くと、叔父の庄兵衛とひょろ松が、あけはなした櫺子窓《れんじまど》の下で、上きげんの高声で話し合いながら、笑っていた。
顎十郎が入って来たのを見ると、庄兵衛は日ごろの渋っ面をひきほごして、
「やア、風来坊が舞いこんできた。……これ、阿古十郎、貴様が中間部屋にしけこんでいるうちに、だいぶ世の中が変ったぞ。突っ立っていないで、ここへ坐れ。手柄話をきかせてやる」
顎十郎は、のんびりと顔をひきのばして、
「それは、近ごろ耳よりな話ですな。ちょうど、水の手が切れかかっていたところだから、手前にとってはもっけのさいわい」
と、いいながら、叔父のそばに大あぐらをかくと、
「叔父上、それはいったいどんな話です。まさか、堺屋の件ではありますまいな」
庄兵衛は、おどろいて、
「貴様、それを、どこで耳に入れた。この件はまだ世間にはけっして洩れない筈だが……」
「と思うのが、たいへんなまちがい。どういうわけか、この阿古十郎の耳にはちゃんと届いております。……上手《じょうず》の手から洩れると言いますが、それは、この辺のことでしょう」
ひょろ松は膝をゆり出し、
「阿古十郎さん、こんどくらい、気持のいいことはごぜえませんでした。……実は今月の晦日《みそか》に、伝馬町の堺屋から虎列剌《ころり》が出たんです。……主人の嘉兵衛と一番番頭の鶴吉と姉娘の三人がひどい吐潟下痢《はきくだし》をして死んでしまった。ちょうど月代りの最後の日で、呉服橋からは、せんぶりの千太が高慢ちきな顔をして出張《でば》って来て、ひと目見るなり、こりゃア、虎列剌だ、まぎれはねえ、で引きとって行った。……ところが、あくる日からすぐこっちの月番だ。……ひどく無造作に渡したが、さて、受取って考えて見ると、どうも妙な節々があるんです」
顎十郎は、気のなさそうな顔つきで、
「ほほう、妙というのは、どう妙?」
「まあ、お聞きなさいまし。いったい、堺屋では、主人の嘉兵衛と姉娘
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