ろがっているのに、中間や馬丁たちはひどく察しがよくて、顎十郎のためにチョコチョコといろいろに働く。なにかすこし変った噂をききつけると、寄ってたかって根ほり葉ほり探り出し、その結果をもって息せき切って駈けつけてくる。顎十郎は、いっこう気のないようすで、ふん、ふんとそれを聞き流している。全くもってふしぎな関係である。
 大名の上屋敷、中屋敷、合せて五百六十、これに最少四人二分を乗じただけの人数が、顎十郎の手足のように働くとしたら、これまた一種|端倪《たんげい》すべからざる勢力である。
 まず、だいたいこんなようなあんばい。欲《ほっ》すると否とに拘《かか》わらず、ぼくねんじんの顎十郎がいつの間にか、江戸でこんな大勢力になっているということは、たれもあまり知らない。いわんや、叔父の庄兵衛などが知ろうはずがない。馬鹿めが中間部屋にばかり入りびたる、といって外聞悪がるのである。年がら年中、一枚看板の袷をひきずり、夕顔に眼鼻をつけたような、この異相の勤番くずれのどこがよくて、こうみなが惚れるのか、これこそは全くもって不思議。
 さて、不思議はふしぎとしておいて、顎十郎は、このへんでようやくパッチリと眼をひらく。もういっぺん伸びをして起上ってあぐらをかくと、まったく、間髪をいれずというふうに、小者がスッと箱膳を運んでくる。
「先生、御膳になさい」
 腹がへるとのそのそ起上ることにきまっている。部屋ではこの辺の呼吸はちゃんと心得ている。もっとも、鯛の刺身などつくわけではない。この世界なみに、たいてい眼刺《めざし》か煮〆《にしめ》。顎十郎は、うむとも言わずにめしを喰い出す。飯を喰いおわると、お先煙草《さきたばこ》を一服二服。窓から空を見上げながら、
「だいぶ、涼気が立って来たの」
 てなことを、のんびり言っておいて、またごろりと横になろうとするところへ、ひとりの中間が、先生、お手紙、といって封《ふう》じ文《ぶみ》を持って来る。
 顎十郎は受取って、
「これは、けぶだの。俺に色文をつける気ちがいなどはねえはずだが……」
 ゆっくりと封じ目をあけて読み下していたが、無造作に手紙を袂の中に突っこむと、
「ほう、こりゃア、ひょっとすると喧嘩かな。いやはや、どうも弱ったの」
 と、ぼやきながら、剥げちょろの脇差をとりあげ、のっそりと上り框のほうへ歩いてゆく。耳早なひとりが聞きつけて、
「先生!」
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