と、気負い立つと、顎十郎は、
「あん」
と、不得要領な声を出しておいて、長い顎をふりふり小屋のそとへ出て行った。
指定された坂下の水茶屋までやって行くと、よしずの蔭の縁台で、藤波友衛とせんぶりの千太が物騒な眼つきでこちらのほうを眺めている。
顎十郎は藤波のそばへ行って、のそっとその前に立ちはだかると、
「これは、これは、藤波さん、暑中にもかかわらず御爽快のていでまず以て祝着《しゅうちゃく》。……お、これは、せんぶりどのも」
と、例によってわけの判らぬことを言っておいて、きょろりとした顔つきで、
「して、わたくしに御用とおっしゃるのは」
藤波は蒼白んだ顔をふりあげながら立上って、
「ここでは、話もなるまい。その辺を歩きながらでも……」
「おお、そうですか。どっちへ歩きます」
藤波と千太は先に立って、氷川神社の裏道のほうへ入って行く。顎十郎はすこし遅れて、のそのそとそのあとをついてゆく。
片側は土手、片側は鉾杉《ほこすぎ》の小暗《おぐら》い林で、鳥の声もかすかである。御手洗《みたらし》の水の噴きあげる音が、ここまでかすかにひびいてくる。
藤波は立ちどまって、くるりと向きなおると、切長《きれなが》な三白眼《さんぱくがん》でチラチラと顎十郎の顔を眺めながら、
「ほかでもないのだが、すこし御忠言したいことがあって、それで、ご足労を願ったのだが……」
顎十郎は、掌で顎の先を撫でながら、ぼんやりした声で、
「ほほう、それは、それは」
と、一向に張合がない。藤波はキュッと頬をひきしめて、
「ときに、仙波さん、あなたのお役柄《やくがら》はなんです」
「はア、ご承知のように、例繰方撰要方兼帯《れいくりかたせんようかたけんたい》というケチな役、紙虫や古帳面の友というわけで、……いや、おはずかしいです」
「つまり、刑律の先例を調べるのが、あなたの役なのだろう。そんならば、古帳面へしがみついているがいい。あまり出すぎた真似はせぬほうがいいな」
「これは、どうも、ご忠告ありがたい。せいぜい戒心いたします」
藤波はキリッとかすかに歯噛みをして、
「ふん、面は馬鹿げているが、わかりはいいようだな。以後、気をつけろ」
顎十郎は、いんぎんに一揖《いちゆう》すると、
「委細承知いたしました。これで御用は、もう、おすみですか、そんならば、わたくしはこの辺で……」
「待て、待て、
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