、いったい、どんなやつの仕業だったんだ」
「西丸《にしのまる》の御召馬預《おめしうまあずかり》配下、馬乗役で、五十俵三人扶持。……渡辺利右衛門というやつがやったことだったんで……」
「御召馬預役というのは、どんなことをする役目だ」
「……若年寄《わかどしより》支配で、御城内のお廐一切のことを司る役なんでございます。……御召馬の飼方、調方《ととのえかた》。……御用馬や諸侯に下さる馬、お馬|御囲《おかこい》場の野馬の追込み。……そのほか、馬具一切の修繕をする。……この渡辺利右衛門というのは、二年前まで、三里塚の御馬囲場の野馬役で、不思議と馬を見ることが上手なので、お囲場から択《え》りぬかれて西丸へ呼上げられた。……なんでも、上総で名のある和学者の裔《すえ》だそうで……」
「……和学と馬の尻尾。……これは、妙な取合せだな。……それで、どういう手ぐりで、そいつの仕業だということがわかった?」
「どうしても、こうしても、ありゃしません。追々、詮議がきびしくなると、もう、逃れられぬところと思ったんでしょう、辞世の和歌を一首残して腹を切ってしまったんです」
「ほほう、辞世とは振るっている。……どんな辞世だ」
「……ええと、……『草枕、旅寝の衣かはかつや、……夢にもつげむ、思ひおこせよ』というんで」
顎十郎は、また笑って、
「お前に読まれると、馬内侍《うまのないし》が泣きだす。……その歌は、『続詞花《しょくしか》』に載っている。……梨壺の五歌仙といって、赤染衛門《あかぞめえもん》、和泉式部《いずみしきぶ》、紫式部《むらさきしきぶ》、伊勢大輔《いせのおおすけ》なんかと五人のうちに数えられる馬内侍という女の読んだ歌だが、すこしばかり文句がちがう。……馬内侍の歌は、『旅寝の衣かはかずば……』というんだ。……下凡の御用聞に読ませるとまったく滅茶をする。……『かはかつや』たあ、なんだ」
ひょろ松は、口を尖らせて、
「下凡と言われたって腹も立ちませんが、たしかに、そう書いてあったんで。……論より証拠、ここに写しを持っています……」
懐中からの捕物帳を出して、歌を写し取ったところを指しながら、
「……どうです、ちゃんと、『旅寝の衣、かはかつや』と書いてあるでしょう」
顎十郎は、捕物帳を手に取って眺め、
「なるほど。……写し違いじゃないんだろうな」
「いくら下凡でも、てにをは[#「てにをは」に傍点]ぐらいは心得ていますよ」
顎十郎は、口の中でいくども歌の文句を繰返してから、
「乾かず、というなら、『ず』で、決して『つ』じゃあない。……和学者の裔ともあろう者がこんなつまらぬ間違いをするはずはない。……だいいち、『や』じゃ歌になりはしない」
腑に落ちぬ顔つきで考えこんでいたが、
「なあ、ひょろ松、この字違いもへんだが、それよりも、この歌そのものがすこぶる妙だ。……『草枕、旅寝の衣かはかつや、夢にもつげむ、思ひおこせよ』……てんで辞世なんてえ歌じゃない。……『夢にもつげむ』となると、一念凝ったというようなところがあるし、『思ひおこせよ』ときては、なにかを察してくれと言わんばかりだ……」
いつにもなく腕を組んで、
「ひょろ松、これは、なにか、いわくがあるぞ」
「おや、そうでしょうか」
「それで、馬の尻尾のほうはどうなった」
「馬の尻尾、と申しますと」
「渡辺利右衛門という男が、なんのために馬の尻尾なぞ切って歩いたのか、その理由もはっきりわかったのか」
ひょろ松は、首を振って、
「そのほうは、とうとうわからずじまい。……なにしろ、一人で嚥込《のみこ》んで腹を切ってしまったんですから、どうにも手がつけられない」
顎十郎は、キョロリとひょろ松の顔を見て、
「お前は、いま、この事件は落着したと言ったな」
「へえ、そう申しました」
「大ちがいの三助だ。落着したどころか、始まったばかりのところだ」
ニヤリと笑って、
「それで、藤波は、この事件から手を引いたのか」
「……ですから、あなた、引くにもなにも……」
「そいつはいいぐあいだ。……こりゃ、一杯飲めるな」
「え?」
「これで、叔父貴からまた小遣にありつける」
「おや!」
「今日は、桃の節句。……花世の白酒を飲みがてら、ひとつ、叔父貴を煽《あお》りに行こう。……馬の尻尾で、白馬《しろうま》にありつくか」
ひょろ松は、勇んで、
「阿古十郎さん。ほんとうに、ものになりますか」
「なるなる。……なるどころのだんじゃない、ひょっとすると、近来の大物だ」
「ありがた山の時鳥《ほととぎす》……。じゃ、お伴します」
呉絽《ごろ》
顎十郎が、ひょろ松と二人で従妹の花世の部屋へ入って行くと、花世は綺麗に飾りつけた雛壇の前で、呉服屋の番頭が持って来た呉絽服連《ごろふくれん》の帯地を選んでいたが、二人を見ると、美し
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