」に傍点]ぐらいは心得ていますよ」
顎十郎は、口の中でいくども歌の文句を繰返してから、
「乾かず、というなら、『ず』で、決して『つ』じゃあない。……和学者の裔ともあろう者がこんなつまらぬ間違いをするはずはない。……だいいち、『や』じゃ歌になりはしない」
腑に落ちぬ顔つきで考えこんでいたが、
「なあ、ひょろ松、この字違いもへんだが、それよりも、この歌そのものがすこぶる妙だ。……『草枕、旅寝の衣かはかつや、夢にもつげむ、思ひおこせよ』……てんで辞世なんてえ歌じゃない。……『夢にもつげむ』となると、一念凝ったというようなところがあるし、『思ひおこせよ』ときては、なにかを察してくれと言わんばかりだ……」
いつにもなく腕を組んで、
「ひょろ松、これは、なにか、いわくがあるぞ」
「おや、そうでしょうか」
「それで、馬の尻尾のほうはどうなった」
「馬の尻尾、と申しますと」
「渡辺利右衛門という男が、なんのために馬の尻尾なぞ切って歩いたのか、その理由もはっきりわかったのか」
ひょろ松は、首を振って、
「そのほうは、とうとうわからずじまい。……なにしろ、一人で嚥込《のみこ》んで腹を切ってしまったんですから、どうにも手がつけられない」
顎十郎は、キョロリとひょろ松の顔を見て、
「お前は、いま、この事件は落着したと言ったな」
「へえ、そう申しました」
「大ちがいの三助だ。落着したどころか、始まったばかりのところだ」
ニヤリと笑って、
「それで、藤波は、この事件から手を引いたのか」
「……ですから、あなた、引くにもなにも……」
「そいつはいいぐあいだ。……こりゃ、一杯飲めるな」
「え?」
「これで、叔父貴からまた小遣にありつける」
「おや!」
「今日は、桃の節句。……花世の白酒を飲みがてら、ひとつ、叔父貴を煽《あお》りに行こう。……馬の尻尾で、白馬《しろうま》にありつくか」
ひょろ松は、勇んで、
「阿古十郎さん。ほんとうに、ものになりますか」
「なるなる。……なるどころのだんじゃない、ひょっとすると、近来の大物だ」
「ありがた山の時鳥《ほととぎす》……。じゃ、お伴します」
呉絽《ごろ》
顎十郎が、ひょろ松と二人で従妹の花世の部屋へ入って行くと、花世は綺麗に飾りつけた雛壇の前で、呉服屋の番頭が持って来た呉絽服連《ごろふくれん》の帯地を選んでいたが、二人を見ると、美し
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