た。……そこで家主が状屋へ行こうとその封書を手に持って露路を出かかると、いきなり右左から同時に二人の曲者が飛びだして封書に手をかけるから、なにをするといって振りはらうはずみに封書は三つに千切れ、二つは曲者に奪われ、ようやくこれだけじぶんの手に残った……」
「いや、それは困った」
「せっかく臨終の頼みもこんな始末になって、なんとも面目ないが、暗闇の出逢いで曲者どもの顔もよく見えず、取返すあてもないのだから、せめてなにかの足しに自分の手に残ったぶんだけを送るという文意……」
「なんとありました」
「……開いて見ると、短冊形の紙の後が切れ、『五』という一字だけが残っている。……お沢がわしに書き越すからは、言うまでもなく捨蔵さまのいられる所の名にちがいない。……漢字で三字ということだから、滋賀の五箇庄は言うまでもなく、五峰山から五郎潟、武蔵の五日市といたるところを訊ねて廻ったすえ、この下総《しもおさ》の真間の奥に、五十槻《いそつき》という小さな村があるということを聞いたので、先の月の十五日にそこへ出かけて行って見たが、やはりそこにもおられない」
「ふむ、ふむ」
「わしの寿命は、この十月の戌の日の戌の刻につきることがわかっておるのじゃから、わしの力としては、もはや如何《いかん》とも成しがたい。……幸いわしの命はまだ二十一日だけ残っているから、街道のほとりに坐って通りがかりの旅人の相貌を眺め、これと思う人間に後事を托そうと、それで、ここで断食をしていたというわけじゃ」
「うむ……それにしても、そのような曲者がお沢を襲うようでは、何者かがその双生児の秘事を洩れ知り、捨蔵さまとやらを訊ね出して、何事か企てようとしているのにちがいありませんな」
 祐堂和尚は、うなずいて、
「訝《いぶか》しいのは、前の大老水野越前、あれほどの失政をしてお役御免になったにかかわらず、十カ月と経たぬそのうちに、将軍家じきじきのお声がかりで、またその職に復したという事実。その理由は家慶さまのほか誰一人知らぬ。まことに以て訝しい次第。……この見当はあたらぬかも知れぬが、ひょっとすると、あの佞奸《ねいかん》の水野が、最近に至って双生児の秘事を聞き知り、それを種に、上様に復職を強請したというようなことだったのではあるまいか。……果してわしがかんがえるようなことであって、捨蔵さまを水野に捜し出され、その腕の中に抱えこまれるようなことになったら、水野はどのような思い切ったことをやり出そうも測られぬ。……頼みとはこのことじゃが、どうか水野より先に捨蔵さまの居所を捜し出して、この書状をお渡しくだされ。……この書状には、そなわらぬ大望《たいもう》にこころを焦すはしょせん身の仇。浮雲の塵欲に惑わされず、一日も早く仏門に入って悠々と天寿を完《まっと》うなされと書いてある。……ここに捨蔵さまの絵姿もあるから、なにとぞ、よろしくおたのみもうす」
「よくわかりました。……つまり、捨蔵さまの居所を捜しだしてこの手紙を渡し、早く坊主になれと言やいいんですね、たしかに承知しました。……それであなたはこれからどうなさる」
「わしは間もなくここで死ぬ。……わしのことにはおかまいなく」
「そうですか、せめて眼をおつぶりになるまでここにいて念仏のひとつも唱えてあげたいというところでしょうが、お覚悟のあるあなたのような方に向ってそんなことを言うのさえ余計。……では、和尚さん、どうぞ大往生なすってください」
「ご縁があったら、またあの世で……」
「冗談おっしゃっちゃいけない……。あなたは否でも応でも極楽へ行く方。手前のほうはてんで当なし。……あの世もこの世も、これがギリギリのお別れです。……では、さようなら」
 ピョコリとひとつ頭をさげると、冷飯草履をペタつかせながら、街道の夕靄の中へ紛れこむ。

   宙吊女

 今夜のうちに千住までのす気で、暗い夜道を国府台へかかる。
 右は総寧寺の境内で、左は名代の国府台の断崖。崖の下には利根川の水が渦を巻いて流れている。
 鐘ガ淵の近くまでノソノソやってくると、一丁ほど向うで、五人ばかりの人間が淵へ身を乗り出すようにして、忍び声で代るがわる崖の下へなにか言いかけると、崖の下からおうむがえしに、よく透る落着いた女の声がきこえてくる。
 なにをしているのだろうと思って、断崖の端へ手をついて女の声のするほうを斜めに見おろした途端、顎十郎は思わず、ほう、と声をあげた。
 川霧がたてこめて月影は薄いが、ちょうど月の出で、蒼白い月光が断崖の面へ斜めにさしかけているので、そこだけがはっきりと見える。
 蓑虫のようにグルグル巻きにされた一人の女が、六十尺ばかりも切立った断崖へ、一本の綱で吊りさげられてブラブラと揺れている。
 さっきから落着いた声でものを言っているのは、一本の綱で宙ぶらりんになっているその女なのだった。こんなことを言っている。
「……殺すというなら、お殺しなさい。……わけはないでしょう、この綱をスッパリと切りさえすればいいんですからね。どうせ、あたしはこんなふうにがんじがらめになっているのですし、こんなはげしい流れなんだから、あたしは溺れて死ぬほかはない」
 上のほうでは、押し殺したような含み声で、
「誰も、殺すとは申しておらぬ。……一言、言いさえすれば、助けてやると言っているのだ」
 低い声だが、深い峽《はざま》に反響して、言葉の端々まではっきりと聞きとれる。
 下のほうでは、ほ、ほ、ほ、と笑って、
「……なんですって? 白状するなら助けてやるって?……冗談ばっかし!……あたしが、そんな甘口に乗ると思って?」
 上のほうでは、また、別な声で、
「いや、かならず助けてやる。……たったひと声でいいのだ……早く言いなさい」
「そう言う声は、お庭番の村垣さんですね。……お庭番といえば将軍さま御直配の隠密。……吹上御殿の御駕籠台《おかごだい》の縁先につくばって、えへん、とひとつ咳払いをすると、将軍さまがひとりで縁先まで出ていらして、人払いの上で密々に話をお聴きになる。……目安箱《めやすばこ》の密訴状の実否やら遠国の外様《とざま》大名の政治の模様。……そうかと思うとお家騒動の報告もあります。天下の動静はお庭番の働きひとつで、どんな細かいことでも手にとるようにわかるというわけ。……ねえ、そうでしょう? ちょっと土佐を調べてこいと言われると、家へも寄らずにその場からすぐ土佐へ乗りこんで行く。……あなたの父上の村垣淡路守が薩摩を調べにいらしたときは、お庭先から出かけて行って二十五年目にやっと帰って来た。……御用のため、秘密を守るためなら、親兄弟じぶんの子供でも殺す。都合によってはじぶんでじぶんの片手片脚を斬り捨て、てんぼうに化けたり、いざりに化けたりするようなことさえするんです。そういう怖い人が、そうやって崖の上に六人も腕組みをして突っ立っている。……たとえ、あたしがほんとうのことを言ったって、これほどの大事を知っているこのあたしを、生かしておこう道理はない。……ねえ、村垣さん、そう言ったようなもんでしょう?……言っても殺される、言わなくても殺されるじゃ、あたしは言わない。この秘密はこのままわたしの胸に抱いて、死んでゆきます。……どのみち殺すつもりなのなら、早く綱をお切りなさいな。こんなところで宙ぶらりんになっているのはかったるくてしょうがないから。……ねえ、村垣さんてば……」
 上のほうでは、六人が崖っぷちに跼みこんで、なにか相談をしあっているふうだったが、間もなく一人だけが立上ると、ズイと崖のギリギリのところまで進み出て、
「おい、お八重、お前、どうでも死にたいか」
 崖の下では、また、ほ、ほ、と笑って、
「ええ、死にたいのよ。……どうぞ、殺してちょうだい。……あなたたちだけが忠義|面《づら》をすることはない……そちらが、将軍さまなら、こちらは本性院《ほんじょういん》様よ。命を捨ててかかっている腰元が五十や百といるんです。……殺したかったら、お殺しなさい。……あたしが死ねば、すぐお後が引継ぐ。……それでいけなければ、またお代り。……いくらだっているんだから、いっそ、気の毒みたいなもんだわ」
「それだけ聞いておけば結構だ。……お前がこのへんをうろつくからは、これで、だいたい方角もついた。……では気の毒だが綱を切る」
「くどいわねえ。……方角がついたなんて偉そうなことを言うけど、あなた方にあの方のいどころなんかわかってたまるものですか。せいぜいやってごらんなさいまし、お手並拝見いたし……」
 言葉尻が、あッという叫び声に変ったと思うと、女の身体《からだ》は長い綱の尾を曳きながら、石のように落ちてゆく。
 顎十郎は、うへえ、と顎をひいて、
「お庭番というだけあって、なかなか思い切ったことをする。……ひどく切っぱなれのいいこった。……それはそうと、いろいろ聞くところ、どうやら、だいぶ気障なセリフがまじっていたようだ。……祐堂和尚の言い草じゃないが、なるほど仏縁は争われねえ、こんなに早くご利益があろうとは思わなかった。……ひとつ、川下であの女を引きあげて、うまく泥を吐かしてやる」
 古袷の裾をジンジンばしょりにすると、空脛をむき出して、崖っぷちに沿ってスタコラと川下のほうへ駈けだす。
 このへんは足利時代の太田の城のあったあとで、そのころの殿守《でんしゅ》台や古墳がところどころに残っている。古い城址の間を走りぬけて行くと、断崖に岩をそのまま刻んだ百五十段の石段が水際までつづいていて、その下に羅漢の井戸という古井戸がある。
 飛ぶように急な石段を駈けおり、井戸のそばの岩のうえに跼んで、薄月の光をたよりに川上の水面を睨んでいると、先程の女がはげしい川波に揉まれながら、浮きつ沈みつ流れてくる。

   女の頼み

 水際に倒れていたひと抱えほどある欅の朽木を流れの中へ押し落すと、身軽にヒョイとその上に飛び乗り、押し流されてくる女の襟くびを掴んで川岸へ引きよせる。波よけの杭に凭《もた》せておき、石子詰《いしこづめ》の蛇籠《じゃかご》に腰をかけてゆっくりと一服やり、
「これで一段落。……あとは水を吐かせるだけ」
 暢気なことを言いながら、薄月に顔むけて眼を閉じている女の顔をつくづくと眺める。
 二十歳といっても、まだ二十一にはならない。目鼻立ちのきっぱりした瓜実顔。縮緬の着物に紫繻子の帯を立矢の字に締め、島田に白い丈長《たけなが》をかけ、裾をきりりと短く端折って白の脚絆に草鞋を穿いている。
「これは大したもんだ。甲府じゃこんな鼻筋の通った女に、お目にかかったことがなかった。……齢はまだ二十歳になったぐらいのところだが、崖に吊りさげられながらあんな悪態をつくなんてえのは、この齢の小娘にはちょっと出来ない芸当だ。……波切りの観音さまのようなおっとりした顔をしているくせに、よくまあ、あんな憎まれ口がきけたものだ、これだから女はおっかねえ。……しかし、いつまでもこうしておくわけにはゆくまい、どれ、水を吐かせてやるか」
 吸殻を叩いて煙草入れを袂へ落すと、やっこらさと起ちあがり、まるでごんどう鯨でも扱うように襟を掴んでズルズルと磧《かわら》へ引きあげる。衿をおしあけて胸のほうへ手を差し入れ、
「おう、まだ温《ぬく》みがある。このぶんなら大丈夫。……落ちる途中で気を失ったとみえて、いいあんばいにあまり水も飲んでいない」
 がんじがらめになっている繩を手早く解いて俯向けにして水を吐かせ、磧の枯枝や葭《よし》を集めて焚火を焚き、いろいろやっているうちに、どうやら気がついたらしく微かに手足を動かし始めた。
「へえ、お生き返りあそばしたか」
 女の肩に手をかけて、手荒く揺すぶりながら、
「姐さん姐さん、気がつきなすったか」
 女は、長い溜息をひとつ吐くと、ぼんやりと眼をあいて怪訝《けげん》そうにあたりを見まわし、
「……いま、なにか仰有《おっしゃ》ったのはあなたでしたか。……あたしはいったい、どうしたのでしょう」
「どうしたもこうしたも、ありゃしない、お前さんが鐘ガ淵へ落しこまれて土左衛門になりかかって
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