して待ちおった甲斐があったというものじゃ」
顎十郎は、すっかり照れて、首筋を撫でながら、
「こりゃどうも……。せっかくのお褒めですが、それほどのことはない。……生れつき、ぽんつくでしてね、いつも失敗ばかりやりおります。……今度もね、甲府金を宰領して江戸へ送るとちゅう、何だか急に嫌気がさし、笹子峠へ金をつけた馬を放りだしたまま、上総まで遊びに行って来たという次第。……とても、賢達の理才のというだんじゃありません」
のっそりと跼《かが》んで、
「まあ、しかし、褒められて腹の立つやつはない。おだてられるのを承知で乗りだすわけですが、二十一日も飲まず喰わずで手前を待っていたとおっしゃるのは、いったいどういう次第によることなんで」
「じつは、少々、難儀なことをお願いしたいのじゃ」
「いいですとも。……金はないが、これでも暇はありあまる男。……せいぜい褒めてくだすったお礼に、手前の力に及ぶことなら、どんなことでもお引きうけしましょう。これで、いくらか酔興なところもあるのです。……それで、手前に頼みとおっしゃるのは?」
「あなたがこの仕事をやりおうせて下されば、国の乱れを未然に救うことが出来る」
「これは、だいぶ大きな話ですな。……手前が国の乱れを?……へ、へ、へ、こいつァいいや。よござんす、たしかにお引きうけしました。……では、早速ですが、ひとつその筋道を承わりましょうか」
「早速のご承知でかたじけない。これで、わしも安心して眼をつぶることが出来ますのじゃ」
「お礼にゃ及びません。……出家を救うは凡夫の役、これも仏縁でしょうからな」
「は、は、は、面白いことを言われる。……では、お話し申すことにいたす。……しかし、これは斉《ゆ》々しい国の秘事でござるによって、人に聞かれてはならぬ。近くに人がおらぬか、ちょっと見て下され」
「おやすいご用」
顎十郎は、森を出て街道をずっと見渡したが、薄い夕靄がおりているばかり、上にも下にも人の影はない。念のために森の中も充分すかしてから戻ってきて、
「誰もおりません」
「では、どうかもうすこしそばへ……この世で四人しか知らぬ国の秘事を解きあかし申す」
「はあ、はあ」
「……十二代将軍|家慶《いえよし》公の御|世子《よつぎ》、幼名《ようみょう》政之助さま……いまの右大将家定公は、本寿院さまのお腹で文政七年四月十四日に江戸城本丸にお生れになった
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