》の『さ』。こりゃあ、わけはない。すると『大』はこの筆法で、大臣《おとど》の『お』かな、それとも大人《うし》の『う』かな。……『さおか』。でははなしにならないから、するとやはり大人のほうで『さうか』。……さうか……、さうか……、草加!……ふ、ふ、なるほど!」

   涎《よだれ》くり

 湯島の古梅庵という料亭の奥座敷。
 柱掛に紅梅が一と枝|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けてあって、その下で顎十郎が口の端から涎を垂らして、ぼんやりと眼を見ひらいている。
 これと向きあって、紫檀の食卓に腰をかけ、ニヤニヤ笑っているのは、鐘ガ淵のれいのお八重。
 高く組んだ膝の上へ肱をついて掌で顎を支え、ひどくひとを馬鹿にした顔つきで、
「ほほほ、ちょいと顎さん……。仙の字。……なにもかも承知のくせに、すッ恍《とぼ》けてあたしを嬲《なぶ》ろうとしたって、そううまくはゆきませんのさ。……お前さんが、風呂へ行っている隙に、祐堂和尚の手紙を読んで、あんたが知っている字も、和尚のおせっかいも、なにもかもみんなわかってしまったの。……『五』という字が手に入ればもうこっちのもの、捨蔵様のいどころはこれでちゃんとわかりましたから、あたしはひと足先にまいりますよ。……始めて江戸へ出て来たひとを、こんな目に逢わせてお気の毒さまみたいなもんだけど、これに懲りて、もう柄にないことはおよしなさい、わかりましたか。……ご縁があったら、またいずれ。……あとで手足の痺れが直ったら、ちゃんと涎を拭いておきなさい。……くどいようだが、あたしはこれから行きますよ、よござんすね。……では、さようなら」
「ち、ち、ち……」
「畜生と言いたいのでしょう、急がずに、あとでゆっくりおっしゃい、ね」
 言いたいだけのことを言って赤い舌を出すと、お八重はツイと小座敷から出て行ってしまった。
 痺れ薬のせいで手足はきかないが、頭は働く。口惜しくて腹の中が煮えくり返りそうだが、顎の筋まで痺れたとみえて、歯軋りすることさえ出来やしない。
 それからひと刻。
 ようやく手足がすこしずつ動くようになった。半分這うようにして帳場まで行き、曳綱後押附の三枚駕籠を雇ってもらい、その中へ転がりこむと、レロレロと舌を縺らせながら、
「そ、う、か……そ、う、か……」
「おい、お客さまが、そうかそうか、とおっ
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