りんになっているその女なのだった。こんなことを言っている。
「……殺すというなら、お殺しなさい。……わけはないでしょう、この綱をスッパリと切りさえすればいいんですからね。どうせ、あたしはこんなふうにがんじがらめになっているのですし、こんなはげしい流れなんだから、あたしは溺れて死ぬほかはない」
 上のほうでは、押し殺したような含み声で、
「誰も、殺すとは申しておらぬ。……一言、言いさえすれば、助けてやると言っているのだ」
 低い声だが、深い峽《はざま》に反響して、言葉の端々まではっきりと聞きとれる。
 下のほうでは、ほ、ほ、ほ、と笑って、
「……なんですって? 白状するなら助けてやるって?……冗談ばっかし!……あたしが、そんな甘口に乗ると思って?」
 上のほうでは、また、別な声で、
「いや、かならず助けてやる。……たったひと声でいいのだ……早く言いなさい」
「そう言う声は、お庭番の村垣さんですね。……お庭番といえば将軍さま御直配の隠密。……吹上御殿の御駕籠台《おかごだい》の縁先につくばって、えへん、とひとつ咳払いをすると、将軍さまがひとりで縁先まで出ていらして、人払いの上で密々に話をお聴きになる。……目安箱《めやすばこ》の密訴状の実否やら遠国の外様《とざま》大名の政治の模様。……そうかと思うとお家騒動の報告もあります。天下の動静はお庭番の働きひとつで、どんな細かいことでも手にとるようにわかるというわけ。……ねえ、そうでしょう? ちょっと土佐を調べてこいと言われると、家へも寄らずにその場からすぐ土佐へ乗りこんで行く。……あなたの父上の村垣淡路守が薩摩を調べにいらしたときは、お庭先から出かけて行って二十五年目にやっと帰って来た。……御用のため、秘密を守るためなら、親兄弟じぶんの子供でも殺す。都合によってはじぶんでじぶんの片手片脚を斬り捨て、てんぼうに化けたり、いざりに化けたりするようなことさえするんです。そういう怖い人が、そうやって崖の上に六人も腕組みをして突っ立っている。……たとえ、あたしがほんとうのことを言ったって、これほどの大事を知っているこのあたしを、生かしておこう道理はない。……ねえ、村垣さん、そう言ったようなもんでしょう?……言っても殺される、言わなくても殺されるじゃ、あたしは言わない。この秘密はこのままわたしの胸に抱いて、死んでゆきます。……どのみち殺すつも
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